藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

沈黙の電子楽器。


鍵盤がなんだかスコスコ音がしてきたな、などと思っていたら。
液晶パネルが何だか古い蛍光灯のようにチカチカまたたいている。
まあ音が出てりゃいいワイ、と思っていた間もなく。


「ジジ…ジ、ブチぃッ!!」
星飛雄馬の絶命の音、のように絶望的な音を発して臨終した。
もうまったくウンともスンともいわぬ。(嘆)


亡骸のようになってしまった鍵盤楽器を前に思う。

なぜか四十を越え、再び基礎からやり直そう、と思ったこと。
なぜか曲の解釈とか、時代背景とか、そんなことも勉強してみよう、と思ったこと。
なぜかジャズも手習い始めよう、と思ったこと。


年を取って再び取り組むと、いろいろ分かることもあるものだ。

なぜか体の調子と指の調子は連動していること。
基礎練習にも方法論があり、いたずらな反復練習はかえって害をなすこと。
作品に対する自分の姿勢、が結構リアルに演奏に出てしまうこと。


プロでもないのに、と思っていたら、なになに。
見る人が見たら「今、ゼンゼン歌ってないでショ!!」と即答されたのには驚いた。
そして、パッと見た手の形とか姿勢とか。


我われが「プロの所作」を見て何も感じぬのは、それがほとんど完成しているからのようだ。
よくアマチュアが妙なところに力が入り、いかにも苦しそうな姿をしているのを見かけたことはないか。


知らずにそんなクセがついていたことも、新鮮な驚きだった。


芸術の一端にようやく触れた、そんな思いも最近感じる。
まあそんなことを気づかせてくれたクラビノーバ


近々生ピも導入予定なのだが、もうしばらくお付き合いいただくことにする。