て全然かわいそうではないのだけど。
昔から、自意識過剰気味?
異性を気にしだした中学くらいから。
声をかけられたりすると、ずっとそのことばかり考えるような習性があった。
そんな「根っこの性質」は未だに直っていないな、と時折り気付くが。
我ながら性懲りもなく。
そういや。
この「脳内オキュパイド状態」は何か難しいことや、イヤな交渉ごととかを前にしても頻繁に現れる。
単なる心配性だろうか。
俯瞰力と不動心。
先日産経のコラムニストがイチローや松井の「俯瞰力」について特筆していたが、あれと同じ話になるか。
「7つの習慣」にもあった重要な原則。
- 影響の輪、と
- 関心の輪。
自分の「関心の輪」は概して広い。
たとえば一国民としては関心があっても、自分がイチローの200本安打達成に尽力できることは皆無である。
もし自分がデートに誘いたい相手に、手紙かメールを「心づくし」で書いたら、あとは「天命を待つのみ」である。
自分ができること、をしてしまった後も「どうかな、こうかな」と心配しても埒があかぬ。
いろいろ気をもむのが人情だが、「そんなこと」が続くと段々効率化されてくる。
というか冷静に「どうにかできること」と「どうにもならぬこと」を「区別する眼」を持つことができれば「不必要な悩み」からは解放される。
ということが分かってくる。
というか「それ」を分かっている人は驚くほど少ない、というのが最近の著名な方々の言である。
あんなエラい先人たちが真顔でそんな話をしているのだから、その重要性は察するにあまりある、と思う。
「なやみスイッチ」が入ったら、すぐ「自分の(結果への)影響具合」を計り、結果のために「できることのみ」考えて、ほかの部分は「思考」から解放してやる。
pcだってメモリの使用量は少ないほうがいいじゃない。
もっとも人間的な情緒かもしれないが、モヤモヤして心の中をグルグルと感情の渦が回っている状態は避けたいものだ。
松井やイチローが備えているのは、そんな思考回路を若くして「あたかも自動」であるかのように備えていることなのだろう。
またまた、ふと自分の心を占有していた「自意識」i気づいて書いてみた。
俯瞰、俯瞰、俯瞰、フカン。
人の「心」って、実に興味深い。