- 作者: 矢部正秋
- 出版社/メーカー: 成美堂出版
- 発売日: 2005/10/01
- メディア: 文庫
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共感力
共感は、「自分の主観を用いた、相手の気持ちの観察の手段だ」という。
相手の立場に身を置いて、自分がどんな気分や感情になるのだろうと想像するのである。
「大人のための勉強法」和田秀樹 PHP研究所
コフートは共感という体験を通じて、人間は心理的に結びつくことができるという。(後略)
共感は「心の成長」の証であるという。
こんなことは学校では誰も教えてくれない。
客観力
そして真骨頂か。
室町時代の能役者・世阿弥のような天才ですら、そうだった。
自己中心の視点の誤りに思い当たり、観きゃの立場で「能を舞う私」をイメージする技法、「離見の見」を悟ったのは、五十代の後半である。(p167)
離見の見。
この辺りが、最も重要だが、難度の高い自己コントロール、というか「人付き合い」の要諦か。
六十になって気づく(あるいは気付かないかも)より、一冊の本でそんな気づきを得られれば、まったく望外の幸せというほかない。
できるだけ多くの人に一読してもらいたい書だ。
以下、「離見」の意義について、少し長いが抜粋しておく。
もし他人のまなざしをわがものとして見ることができるならば、そこに見えてくる表象は、演者と観客が同じ心を共有して見た表象だということになる。
それができたとき、演者は自分自身の姿を見とどけ得たわけである。
役者がいかに自分がよい演技をしたと思っても、観客に感銘を与えないのでは、自己満足にすぎない。
だが、観客のレベルには落差があるし、役者は観客ではない。
この埋めがたい溝を何とか埋めるためには、みずから演技しながらも、そ演技を見つめる観客の目をイメージする必要があった。
自分の舞姿を、観客と一緒に眺める意識をもつ。
そうすることで、自分では意識しなかった演技の欠陥を見ることができる。
自分自身の姿を見とどけたのであれば、左右前後、四方を見とどけたということになるはずである。
しかしながら、人間の肉眼は、目前と左右までは見ることができても、自分の後姿をみとまどけたためしはないであろう。
だが、能の演者は自分の後姿まで自覚していなければ、思わぬところで表現が通俗になるものである。
したがって、私たちは他人のまなざしをわがものとし、観客の眼に映った自分を同じ眼で眺め、肉眼の及ばない体のすみずみまでみとどけて、五体均衡のとれた優美な舞姿を保たねばならない。
これはとりもなおさず心の眼を背後において自分自身を見つめるということではないのだろうか。
(『日本の名著10世阿弥・変身の美学』山崎正和現代語訳 中央公論社)
世阿弥が「離見の見」に至ったのは五十代の後半から六十代のはじめにかけてであったようである。
世阿弥ほどの天才でも、演技者の自己中心的な見方から離れ、第三者(観客)の目で自己を見る視点に至るには、長年の人生経験を要した。
それほど自己を相対視することは難しい。
「我見」と「離見」の差は小さな違いに思えるが、実はその間には大きな溝がある。(p180)
究極の視点
詰まるところ。
あらゆる職業とか、地位とか、年齢とか。
それらはこの「我見、離見」に集約されないか。
他人のまなざしをわがものとし、観客の眼に映った自分を同じ眼で眺め、肉眼の及ばない体のすみずみまでみとどけて、五体均衡のとれた優美な舞姿を保たねばならない。
これはとりもなおさず心の眼を背後において自分自身を見つめるということではないのだろうか。
この辺りの指摘に尽きる。
究極の客観視。
この辺りに「守・破・離」とかの要諦がありそうだ。
人間の持つ、一番弱い部分と、一番強い部分
そんなことの「気の持ちよう」を古人は我われに伝えたかったのではあるまいか。
いかにビジネスや近代社会が複雑になろうとも、常に「古人の経験」に突破口はあるのではないか。
そんな気がする。
先代と「断裂」するのではなく。
上手く、次世代につなぐ。
またそれで見えて来る未来もあるのだ。
それにしても、「自我の克服」とは一生のテーマだと改め考えた。