喉頭がんで闘病していた清志郎がなくなった。
彼が団塊の世代、自分たちには相当離れた「大人のワル」の代表だった。
およそ二十くらいも年が違うと思ってたのに、「雨上がりの夜空」などは自分の事のように真似したものだった。
58才での永眠は、また忌野清志郎伝説を広げるだろう。
いつもそうだが、「忘れたくない人」とか「失いたくない人」というのは「そうなって初めて」その存在に気付かされることが多い。
それほど、自分たちは「現状」には慣れ合い、またシリアスな現実には弱いのだ。
今の目上が、時代の節目なこと
「親孝行、したい時に親はなし」は古いことわざだが、昨今自分の目の当たりにした時代の人々、の趨勢を聞くたび、いよいよ自分も「時代の節目」のようなものにも行き当たるのだなぁ、と実感する。
自分は、これまではほとんど「人を失う」ことのない世界で生きたきた。
これからは、自分の慕うミュージシャンであれ、作家であれ、教師であれ、親であれ、友人であれ、社会人であれ。
もたれあって、スクラムを組んで歩んでゆくのでもなく、結構「自身」固有の価値観だけを道しるべに、生きてゆかねばらなぬ。
そこには正解もないし、共感者もいない。
自分に対するだけの「腹」が全てを決定する。
自分たちは「年齢」とか「経験」をすぐ拠り所にしがちだが、真に重要なのは「その人のもたらす意思」とか、その「意志の力」なのだろうと思う。
今、清志郎がなくなっても、自分の彼に対する思いは色あせない。