藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間の使い方。


よく考えてみれば。
0-20才までが学生。
20-60までが社会人。
それでthat's all。
「その後」のことなんぞ、付け足し扱い、でよかったのだろう。


しかし、時代は変わる。
平均寿命(あくまで「平均」ですから。「平均」が80を超えるっておっソロしい長寿国だよね)は伸びる一方。
伸びるのはいいが、伸びている間、我われは生きていかねばならない。
もう「付け足し・惰性の老後」とばかりは言っていられない、老後は自分たちがルーティンで迎える「生活サイクル」の一つになってしまったのである。


60で仕事から離れたとしても、これまでの学生時代に匹敵する20余年が残っている。
これは無計画には過ごせない。
人生の中の位置付けとしても重要だが、なによりもその間「食べてゆく」だけの基盤が必要になってくる。
ライフライン頼みの、国の補助を終生当てにしているのも決まりが悪い。


明確に60アフターの過ごし方、というのを考えて定年を迎えねばならないのが、今の世代の運命のようである。


だが。
何も暗いことばかりでもない。
「付け足し」みたいなもんだと思うから、なかなか付加価値が出てこなかった。
付け足しではなく、人生の円熟の仕上げ、最大の「味わい処」だと思えば、そこを過ごすやる気も湧いてくるだろう。
年をとって、若さを失い、チビで行くだけが老いではないのだ。


若い人と話をしても、人生の相談を受けても、恋愛のことでも、酒のことでも。
もっとも含蓄や薀蓄(うんちく)が溜まっているのはこの世代なのだ。


当たり前だが、人生のノウハウ、機微の集積がこの六十以降にある。

これから食べる、八万時間。


定年後の自由時間は八万時間あるという。
一日8時間で一万日。
一万日、は365で除しても27.4。
つまり27年分は、毎日8時間の自由時間がある。


これを自分たちは「きちんと消費」してゆかねばならないのである。
いやいや使うのでは、あまりに勿体ない。


それだけの自由時間が、これからの自分たちに与えられると思うと、何かワクワクするのは自分だけではないだろう。
子供のころの、「遊びの時間」と同様、これからの自分たちの余暇、というのは実はとんでもない「楽しみ」を含んでいるに違いない。


だからこそ、暗い、後ろ向きな時間の消費ではなく、「よっしゃ、何してやろうか」という「美味しい感じ」の時間の食べ方をしたいと思うのである。
「時間が経つ」ということに振り回されると、後追いで「苦しい時間の過ごし方」になるのではないか。


「経ってゆく時間」に振り回されるのではなく、「目の前に、これから広がる時間」をどう使ってやるか、という「今日は何を食べようか」という食欲マインドに似た感覚で明日にも対峙してゆければいいのだと思う。


まだ40半ばだけれど、もう今から60からの食べ物、をちょくちょく考えて行きたいと思っている。




<nikkei netより>

広告会社の博報堂団塊世代を対象にした調査では、「定年後のお金の使い道」は「旅行」「趣味」が上位を占めた。
その旅行も、以前とは様変わりしている。JTB広報室は、変化をこう例える。


「添乗員がガイドをする『十人一色』のツアーから、参加者が自由行動できる『十人十色』へ。
さらに今は、一緒に行く相手や、旅先でやりたいことに応じて内容を選ぶ『一人十色』の旅になってきている」


いまや定年後の自由時間は8万時間を超え、現役時代の労働時間に匹敵するほどになった。
博報堂の別の調査でも、定年後の理想のライフスタイルとしては「仕事、ボランティア、趣味のすべてに取り組みたい」という回答が約4割で最多だった。
だが、そうした意欲が実際の行動につながっているかどうかは、また別の話。


「いざ引退し、個人となって今後、何をし、どう社会とつながっていけばよいかと悩む人も少なくない」。
数々の文化イベントなどを手がけるプロデューサーで、自らも同世代の残間里江子さんは言う。