若い時に、恋愛感情を持って相手を想い、それに傾けたパワーはすごいものがある。
同様に、相手に嫉妬したり、占有しようとしたり、邪推したり、というパワーも相手を想う力とまったく同じにすさまじいものがある。
そうそれがセイシュン。
で、だんだんそういうのがなくなる。
自分の同年代の友人は、嫁さんが浮気していても、「それが彼女の幸せならいい」という。
そんな感じになってくる。
そこには「独占の熱情」もないし、その代わり「身を焦がす嫉妬」もなくなっている。
かといって嫌いなわけではないところが、あまりに微妙である。
恋愛はパワーを使う。
それは若さの対象そのものでもあったと思う。
二十代くらいまでは、力強さ一辺倒で押していけるが、中年はそうでもない。
頭が成熟してくる代わりに、パワーは落ちてくる。
まあ無駄にパワーを使わぬ、という言い方もできるだろう。
翻って「失楽園」は。
壮年になっての「本気恋愛度」は、もはやお互いの命の賭け合いである。
でもこの図式は少なくとも平安時代から続いている、しかも世界的に続いている男女の狂言でもある。
とすると、つまりここ二千年くらい、男女の仲、というのはそう大きくは変化していないのかもしれない。
自分の中の位置づけ。
人生四十年、というくらいの時代のひともそれなりに。
そして平均八十年超、という今の時代もやはりそれなりに。
人生の楽しみ方、というテーマと向き合いながら、自分たちはちゃんと「恋愛」を視野に入れているようである。
「異性(今や同性も)を好きになる力」が生きる原動力になる、という図式は、平均寿命が延びても同様、いやむしろ強いのかもしれない。
大人の恋はしんどいぞ、という意味のことを言いたかったはずが、正反対の「恋愛のススメ」みたいになってしまった。
それはそれで、楽しいことではあるけれど。
「恋は若さの秘訣」、とは大先輩の女傑の「偽らざる諫言」でもあるのだろう。