藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

十八歳。


十八歳の誕生日。
自分のことを思い出す。
およそ「受験受験」と追い立てられ、さりとて「心底のモチベーション」は湧かず、さりとて他にやりたい選択肢を考える社会経験などない。
まさに、「高校を卒業してそのまま就職するには、あまりに方向性が分からない」
というような中、「取りあえず大学へ」というモラトリアムを選択した。


今思えば、この時期に手当たり次第にアルバイトや就職をして「社会経験をいち早く」つけていたら、今の自分はなかったかもしれない。
結局大学の間も学問への方向感は持てず、つまり「モラトリアム期間としての四年」は無為に過ぎて、結局就職することになった。
右も左もわからぬ「ソフトウェア業界」なるものに「茫漠とした可能性」だけを感じ、フィーリングの合う会社に飛び込んだのである。

若者の特権


それにしても。
今十八才の自分に接すれば。
いや十五才でも。
十二才でも。


言っておきたい〜ことがある♪という感じ。

若い時、自らが「自分って若いな〜」と感じることはまずない。

それはあくまで「年よりから見れば、若者の持つ『若さ』がよく見える」ということであり、若者は自分自身が若いかどうか、などとはきにしておらず、気付かない。

つまり、若さとは絶対的なものではなく、相対的なものなのである。

だから、高校生の君が「自分は若い」という感覚は普通は持たないだろう。
「実は、キミは若いんだよ」というのは年長者からの比較を示されて初めて気付くことなのである。

若さの特権。


若いから、何かアルバイトや仕事で失敗しても、「いくらでも再起の機会がある」。とか。
さしたる動機を持たずとも、勉強や恋愛やアルバイトにチャレンジしてみて、しかも結果を咎められることは少ないこと。
(ただし誠意のない振る舞いはどの年代でもアウト!であるけれど。)

十八の自分へ。


今身近に十八才の自分がいたなら。
優しい目をして、そしてこう言いたい。

「今のキミに、チャレンジしてはいけない、という分野や職業などない」
「思いつくあらゆるものに挑戦し、目いっぱいやってみてから「どうするか」を考えても許される」


それが二十歳前なのだ、と思う。

だから目いっぱい今の時間を燃焼すること。
(若さの最大の誤謬は、若いゆえに「時間を無駄に過ごす」ことに頓着がないことである。いくらでもある、と思えば時間の有難味は薄れてしまう。年齢とともに反比例してゆくが。)


思いついたチャレンジで、躊躇することは何もない。
相手も受け入れやすい。

三十、四十、五十才と、世間のことは見えてくるが、自分の若さは急激になくなってゆく。

「若さ」は当の本人は気付かないが、最大の財産であり、またそれは本人の気の向くまま「どこででも消費し得る」ようなものなのである。
見えない貨幣を持ち、それを使っているようなものだ。

さて。
その「若さ」を携えて、君はどこへゆくのか。
どこへも行かないのか。
やはり「どこへ行くのか」を悩むのか。

君の若さの使い道。


有り余る若さ、を持った人が、その「若さの使い方」に戸惑うように。
せっかくお金を稼いだ人が、その「金の使い方」を知らぬように。
かつて気にしなかった「健康」に、慢性の大病をして初めて気付く壮年の人のように。


我われは、常に「今満たされているもの」に対しての配慮や感謝の念を忘れがちである。
それが冒頭の学生根性でもある。


今欲しいものは、実は「将来にわたって欲しいもの」ではないことが多い。
我が「セイシュンの十代」はそんなことを語っているようなのである。

「自分が本当に欲しいものは何だろう」ということを考えることは難しいが、しかし常にそれを自問することは重要な視点ではないかと思う。

そして、それが今の若者に伝われば。
世代を超えて「思いの共有」が可能なのではないか、と今の若者には問うてみたいのである。