藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

すべては自分のために


チャンスはそこらじゅうにある、という話を書いたら、賛否ずい分沢山の反響をもらう。
また「人生をどうする」とかオマエはそんなことをいつまで書いているのだ、というネガティヴボイスも相変わらず。
けど書いておきたいのです。
もう性分ですね、これ。


また「自分には「そう」は思えなかった」という声が多かったが、改めて目から鱗でした、という声も多く、改めて「身の回りの出来事」はとらえ方一つでどうにでも転ぶのだ、ということを再確認した。
これは若い人なんかは知らないだろうけど、相当生きていくうえでは強力なツールである。


自分に課せられた、なんだか「いじめ」にも似た状況は、(ちょっとマゾ的だが)最高のトレーニングの機会でもある。
部門間のいやらしい調整ごととか、理不尽にも思える説得作業とか「嫌な任務」ほど、己を鍛える、という皮肉に向き合うことになる。

置き換えの発想。


これは実はちょっとした「自我解脱のトレーニング」にもなっている。
いつもこうした意識を持てれば、日常のかなりの部分はすべて「修行」という対象に置き換えることが可能である。
凡人はそこで「それでは相手の一方的な利得になる」というようなことを言う。

それが「あざとい」のである。

相手様のことはこと。
あくまで自分のこれからの「助けになるかどうか」という一点で判断すればよい。
すると、大抵のことは自らの「精神の修養に資する」ということになる。


あす、早朝ミーティングで早出するのも、
人手が足りないから書類搬送を手伝うのも、
休日に出ているスタッフから仕事の様子を聞くのも

すべては自分のためになっている。
と思わば、この世はバラ色である。

だけど、それで「夜酒を飲む」という行為だけは正当化できない。
それで何か成長する自分、はそこにないから。


飲酒は自らの成長には「資さない」。
あ、飲まないこと、が修行なのか。