藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

持つものの恐怖。


お笑いコンビのチュートリアル、福田が言う。

福田 芸人になってからは毎日不安です。
レギュラーが欲しい欲しいと思っていて、レギュラーもらったら次は「レギュラーなくならへんかな」って心配ばかりで。
毎日不安だから、酒を飲むんですよ。
幸せなのは、自分が笑っている時。
ある番組で、共演者とソファで落としあいをするという、自分でやってて笑える企画がありました。大の大人が、これで金もらえるのって、そんな仕事、ほかにあるかって。

「芸人となったからには、安寧に畳の上で死ぬと思うな」とは人間国宝桂米朝の至言である。
斯様に「芸事」とは厳しいものなのだと思う。
だから常人はみだりに分け入らないほうがよろしい、とも思う。
(ちょっと魅惑的なのだけど)


それはともかく。

持つゆえの恐怖。

「レギュラー欲しいと思っていて、もらったら次は"なくなること"が心配になる。」
どんどんレギュラーが増えたら、"減らないかどうか"が心配になる。
ずーっとレギュラーがあったら"いつまで続くか"が不安になる。


大体、そんなものだと思う。
どうしても、自分たちは「自分の基準」でものを見る。
それが自我であり、またプライドでもあるのだと思う。


自分に照らして思う。
遅めに社会に出て、もらった初任給は16万4千円。
(アルバイトでは20万円くらい稼いでいたが、なにより安定感があったことを思い出す。)
それから独立する三年間の間に、確か月給は30万円位になったと思う。


それから軽く二十年。
収入は当時の何倍かになったが、不安は一向になくならない。
何より、「自分の将来すらはっきりとは見えてこない」ことに年とともに気付く。


二十代にはそこまで思考が及ばなかったが、実は将来への不安は計り知れないことに気付く。
そしてまた、そこで「恐怖に慄(おのの)くこと」もあまり意味がないことも、段々と分かってくる。

単騎の覚悟。


いくら財産があっても。
いくら生活水準(生活費の額のこと)が上がっても。
いや水準が上がれば上がるほど、「その先」に永遠にそれを維持するのは難しくなる。
しかも経済的な問題ばかりではない。


円やドルがいつ危機にさらされるかもしれないし、
家族や自分がいつ大病にかかるかもしれない。
そうでなくとも、突然の事故や禍に巻き込まれないとも限らない。

「臆病」は最大の才能である。

とある先輩は言う。
いつもいつも。
常に「そんな恐怖」を想定し、それらに備えていることが転ばぬ先の杖だ、とう至言である。
それはそれで、とても納得性が高い。

平坦な道で、予想もしないで「すっ転ぶ」よりは、常に転倒の心配をしていたほうが、より怪我は軽いだろう。

だが、いつも「びくびく」だけしているのはご免である、とも思う。
そこで必要なのはどういう気構えだろうか。

単騎力。


いつでも、裸になること。
「すっからかん」で始める覚悟。
結局そういうことに落ち着き先を求めるしかない。
人とはそういうものなのだと思う。


どれほどの組織や人間関係や権力と親しくなろうとも。

「明日、完全にゼロからの出立にやるやも知れぬ」

それを「良し」として受け入れられれば、あまりに「保身のための防衛本能」に縛られずに済む。
むしろ、大きくなった組織や人物の最大の敵は「裸になること」への抵抗なのではないかとも思うのである。


いつでもフリチン、「真っ裸で出直すのだ」という心意気を忘れては、自分たちはどんどん「老いて」、保守的な思考になるのではないだろうか。
明日には裸一貫でどこかの会社の扉をノックしているかもしれない、というリセットをイメージする力は、必要以上に安定化への恐怖心に苛まれない心構えなのではないか。


年とともに、積ってくる心の内から、そんなことに気がついた。