藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

得意技、反省会。


自分の責任で進めた事業とか、プロジェクトとか、方針とか、業務ルールとか。
何でもいい。

そうした「責任発生タイプ」のものを、客観的に見られるだろうか。

「自分の責任で始めたもの」は往往にして「我が子」のような見方になり、そしてその先の評価についても冷静でいられなくなる。
そんな傾向が自分たちにはあるように思う。


自分も、自分が決めた事業方針やルールが「明らかに劣勢」であることが聞こえてきた場合。

「それはこういう前提だった!」とか
「その後のここ、がマズかったから数字が伸びないのだ」とか、
実に「言い訳がましい」ところに関心が向く。


だが、そんなことは全然重要ではないのに。
愚かしいことだが、ここでも「自我」というのはそういう風に、スムースなプロジェクトの進行をたびたび、邪魔するのである。


同じことはリーダのみならず、マネージャ、スタッフ、皆に共通である。
皆がそれぞれ「責任を持ったプレッシャー」を感じ、だからこそ「責任」を問われると、それに対する反論を一番に考え、「実際にすべきは何か」がお留守になる。
だいたいそんなことが一般社会の出来事には多い。


で、何が言いたいのか。

「出来、不出来は時の運。だがそれを吟味するかどうかこそが、己の英知である」ということ。

「何かが失敗に終わった」とか。あるいは
「クレームを受けた」とか。


その出来事は消すことはできない。し、むしろ消すべきではない。

すべくは、その原因を分析し、性質を見極め、解明しつくすことでしかない。
それは、恐らく最善の「再発防止策」にもなっているだろう。


今期、「業績が悪かった」というようなことにすら、それは当てはまる。
「なぜ伸びなかったか」を真剣にレビューできるリーダーなら、いつしか好業績への道は開かれるだろう。
改めてそう考えれば当たり前の話でもある。
自分たちは往往にして、それができない。

事件発生後、ただちに「その初動に入れるかどうか」ということは実は大変な企業文化であると思う。

「罪を憎んで人を憎まず」という格言があるが、同様。

ミスが起こるのは避けがたいが、「そのミスを解明して防止策を組み上げる」のは人の英知であり、その組織の文化程度の高さである、と思う。

自分は、そんな意識の集団の中にいたいと願う。