携帯電話が、これほど一人一台以上に普及する、とは二十年前には想像だにできなかったし、十年前にもこれほどのネットワーク社会が来ることは予想の範囲外だった。
そんな中、ネットワークと別に少々驚くことがある。
「写メ」である。
先日、知り合いの縁者の葬儀があったのだが、いわゆる「お見送り」の出棺の時、以前は故人に直に触れ、花などを一輪添えたものだが、今は違う。
「お別れをお願いします」という司会の言葉が出るや否や、「チャキチャキチャキッ」と機械的な音。
皆が携帯電話に付いたカメラを準備している。
「それではお別れを」というと順番に、花を供えるかわりに「カシャッ」「カシャッ」と携帯での撮影の嵐。
故人のデスマスクを撮っておく、というのは悪いことではないが、ちょっと中世のデスマスクの儀礼のようで、とても驚いた。
彼ら、彼女らはあの写真を何かの思い出、としてきちんと保存しておくのだろうか?
(おそらくそうなのだろう)
そこで「携帯カメラ」の可能性に改めて驚いた次第。
恐らく、若い彼らは携帯電話にカメラが搭載されていなければ、「わざわざ故人の遺影を写真にとって残す」ということはしないであろう。
(現にそういう人は老若男女問わずほとんどいない。)
だが、「携帯+写真機」という組み合わせが実現した途端に、一般人の持つ「撮影マインド」がぐっと持ち上がったのである。
写真機を特別に携帯することなく、「いつでも身近な映像が撮影できる状態」であれば、我われはかなりのキャプチャーであるらしい。
「このシーンを撮っておこう」という気持ちは、思いのほか自分たちの心に染みついている感覚のようである。
この度は葬儀のシーンで驚いたが、自分たちの「隠れた欲望」というのはまだそんな形でどこかに潜んでいるのかもしれない。
誰もが、その心の奥底には「アーティストマインド」のようなものを持っているということだろうか。