藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

国を止めてはどうか。


災害が起こり、もう何度目かのことだけれど、一部の地方が壊滅的な天災に遭い、幸い免れた周辺地域とか、さらに離れた地方では、その災害の惨状を聞きつつも「翌日のきょう」をどう過ごせばいいのか分からない。
実際には、日本の同胞が万人単位で亡くなり、今なお数千人の人が孤立し、数十万の人が避難生活をしている。
その一方で、ある人はウォール街で相場を張っている、というのはどうにも違和感があるものである。


それでも、史上初の「計画停電」とか「商業施設の営業自粛」とか、「被災地以外」の取り組みも検討され始めている。
だが「少し電力消費を絞りましょう」とか「少しCO2を減らしましょう」というのはこういう非常事態にはどうにもやりにくい。
どの程度仕事をしようか、それとも被災地のことを気にしようか、実にオタオタしてしまう。

もう少し進めて、東京都心の施設も含み、全国的に「完全に操業停止」にしてはどうだろうか。
もう交通機関のダイヤとか、割り当て地域とかを調整する手間はいらない。
全力で「それ」に向けて注力するのである。

電力消費としては「そこまで」やる必要はないのかもしれない。
が、その代わりに「仕事をストップする部分」を「すべて被災地への何か」に振り向けるのである。
春休みで時間のある学生は、被災地に向かうのもよし。
向かわずにアルバイトして、その報酬を義捐金にするもよし、である。


社会人は有給休暇をとって、他に働きに行くもよし。
あるいは、外部で働かずとも、自宅にあるもので被災地で役に立ちそうな寝具や、衣服やタオルや食料などを「積極的に荷造りする時間」に当てても良いだろう。


直接的に寄付をしたり、物資を搬送したりするだけが貢献ではない。
一旦「日常の手を止め」て、大人も学生も子供も「100%」復興について出来ることを考えてはどうだろうか。


計画停電とか、部分出勤とか、寄付とかボランティアとか、どれもすこし手ぬるい感じがするのは自分だけだろうか。
しかも、この度の惨事の悲惨さは「これまでに類を見ない」ということは皆が感じているようである。

一週間や二週間、「国を止めて」全力を振り向けてみてはどうだろうか。
それでGDPは減少しようとも、国にとっては大事な一体感が残るのではないだろうか。

与党には、ぜひそんなリーダーシップを発揮してもらいたいと思う。