藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時代の空蝉。(2)

IT業界の本音。

ソフトウェアとか、ITとか(最近はICT。ちょっと古いひとがわざわざ"ICT"と言い直しているのがちょっとおかしい)。
その業界にタッチしない人にはかなり分かりにくい業種である。
最近はi-Phoneのプログラムなんかを個人で開発する若者も多く、ずい分とIT業界への認識も浸透してきたと思う。
それはともかく。

コンピュータの歴史、特に日本においての歴史は、まだ半世紀と少し。
とても短い。
なので今生きている人からも、その黎明期の話はまだ聞くことが可能である。

当時、IT業界の就職ガイダンスで説明していたことはただ一つ。
「ソフトウェアの作り方」である。

それはプログラム言語で記述され、
でもそれは実は16進数に翻訳され、
コンピュータ上では二進数で動くこと。
そして、コンピューターは古今東西、その「記述通り」に動く機械であること。

そして、その利用分野は「機械の制御」「人の業務自動化」という風に非常に"幅"があること。

そして、IT業界を志望するのなら、そんな業界の性質を少しでも分かって入ってもらいたい。

そんな思いでいた。
事実、自分が業界のことをよく知らずに入って、意外に保守的で驚いたので、こうした話を後輩たちにしておくべきだと思ったのだ。

これからのソフトウェア企業へ

そしてもう一つ。
未だにその傾向は否めないが、ソフトウェア業界が「メーカーの後塵を拝する」という常識について。
二十年前はそうだったが、今はずい分勢力地図も変わってきている。
というか、「ソフトウェアの価値」が過去最高に高まっているのが今である。

まずはハードメーカー。
それも海外メーカー。
それから「それ意外へ」といった固定観念を捨てて、自分の進路を探してみてはどうだろうか。
今はベンチャーで、経営基盤は脆弱かもしれないが、魅力的なアイデアを持つ企業は多く存在する。

キャリアは浅く、実務経験はなくても、そうした本物志向の会社に飛び込む勇気を、日本の学生たちはぜひ持つべきだろうと思う。

「これまでの常識」を気にすればするほど、そこから離れることが難しくなる。
一度力をぬいて、「これまでと、これから」を眺めてみてはどうだろうか。
既定路線から離れることは、決して無茶なことではない。

2011年版 間違いだらけのクルマ選び [著]徳大寺有恒、島下泰久[評者]速水健朗フリーライター

■「車語り」が止まらない日本

 国内で新車は売れないが『2011年版間違いだらけのクルマ選び』が売れてるという。

 本書の登場は76年。日米貿易摩擦の入り口。日本が世界に誇るものづくり大国としての道を歩み始めた矢先である。

 そんな折、徳大寺は“欧州車には「先進的」な思想があるが日本車は「安くていいクルマ」だけで思想がない”と断罪する。自動車の買い方マニュアルではない。本書は背景にある物づくりの思想を語る批評だったのだ。 それがベストセラーとなり、毎年刷新版が出るようになる。長年続いた本シリーズは、5年前に終刊した。ユーザーの関心は燃費や“エコ”だけに終始し、若者は自動車に憧れを抱かなくなった。昨年の雑誌『NAVI』の休刊も車を文化として語る時代の終わりを示した。自動車批評は役割を終えた。価格に見合った性能があればいい。自動車は単なる道具になったのだ。

 だが、ここにきて復刊したら売れ出した。なぜだ。おもしろいが中身は良くも悪くも相変わらず。クルマの背景にある思想を語り、安いだけのつまらないクルマをこき下ろす。スタンスは同じ。でもなぜか人々は本書に戻ってきた。復活へのご祝儀? 語る場の消滅への反動?

 日本車の魅力の無さは相変わらずでも、とりまく環境は激変した。トヨタは生産台数世界一になった(その後、風評被害に泣かされたが)。ただし全体では中国に圧倒されている。リーマンショック後、世界のメーカーの順列が揺らいだ。震災でサプライチェーンは寸断、円高も進み日本車は危機にさらされている。EV(電気)車も登場……。

 この時代に、日本はどうやって物づくりに挑むべきか。それを知りたくて本書に戻ってきたのか。ともあれ、日本がまだ自動車の国である事実は揺るいでいない。車語りは止まらない。