藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

次世代のパラダイム。

新ローマ・レポートより。
ここ数日で二回書いた内容で、関心が高かったので若干の補足を。

資源の枯渇、環境汚染、気候変動、不公平、社会紛争などに関しても、それらがもたらす損失が明らかになって初めて、対策のために資金を投じる。
つまり、危機に対応するための巨額な投資は、マイナスの影響が顕在化してから行われるのだ。繰り返すが、説明と議論という民主主義的な手続きに時間をとられるせいで、投資は、事が起きる前ではなく、事が起きた後、それもずっと後になってようやく行われるだろう。

原発も象徴的だが、結局今の経済社会ではこの原理が"大原則"になっている、ということが最も大きな「傾向の特徴」である。
つまり、未知の危険に対しての「予防的な配慮」は顕在化しないかぎりほとんど意識されない、という事実。

しかし逆に考えてみれば、そうした「未知なるもの」にあらゆる予防を考え、労力と資源を割いていては、いっかな「実行に至らない」というのも実感するところである。
こうした「危機と現実の間」をいかに"上手に埋めていくか"という実行技術が現代の知恵、ということなのだろうと思う。

サービス業の生産性低下について。

いわゆる産業の「サービス化」についての指摘。

なぜなら、成熟経済においては、多くの人がサービス業や介護ビジネスに従事するようになるが、そういった業種で生産性を大きく向上させるのは難しいからだ。農業や工業、オフィスワークでの労働が中心だった時代は、生産性を大きく伸ばすことができた。
 生産性の伸び率の低下は、ここ数年の米国の統計にすでにその兆候が表れている。5年前は3%だった伸び率が、今では1%に低下しているのだ。

結局産業革命が一通り終了し、つぎの「サービス産業の時代」においては、機会を用いたレバレッジは効かない。
サービス業の燃費の悪さが、先進国を中心にこれからの産業構造を縮小させていくのである。
ある意味、成熟とはそういうことなのである。
また、昨今取り沙汰される食糧問題については、レポートは「エネルギーほどには不足はないだろう」と予測している。

エネルギー関連以外のエコロジカル・フットプリントは、生態系の許容量(バイオキャパシティー)の範囲内にとどまるだろう。具体的に言うと、私は2052年までに食糧や資源が不足するとは考えていない。

そして意外なことに、気温の上昇や、経済の成長鈍化が人口を「自発的に抑制する」という予測である。

それは『2052』が、汚染による健康や農業へのダメージではなく、女性が出産する子どもの数を自発的に減らすことによって、人口が減少していくと予測している点だ。また、経済成長が減速するのは、資源の不足によってではなく、経済が成熟化し、従来のように生産性を向上させられなくなる、と予測する。

つまり、結局『?先進国の「サービス産業化」という"成長のどん詰まり"が原因となり、成長鈍化が人口を減少させて行く』という、ここ200年の大きなトレンドと、さらに以下に引く「?そうした結論を事前に"持続経済優先"には主導・意思決定できない今の資本主義の仕組み」が、互いに引き合って、これからの「停滞の時代」を迎える、ということのようである。

レポートは最後にそうした「短期志向の意思決定システム主義」から我われが抜け出せるかどうか、という示唆をして結んでいるが、50年後には「衰退か持続か」という判断を迫られる時代が来るのはほぼ間違いないだろう。

「短期の意思決定システム」を数十年かけて変えていけるかどうか、がさらにその先の50年をけっていするのである。

気候変動の危機を解決するために、地球社会は投資の流れを「最も利益をもたらすもの」から「社会を長く持続させるために役立つもの」へとシフトさせていかなければならない。
 しかし、残念ながら資本主義はそういう判断を促さないだろう。資本主義の下では、「社会が何を求めているか」ではなく「利益を生むこと」へと資金が割り当てられていく。さらに、民主主義の議会は「最大の利益」と「社会の利益」を兼ね備えた法案を可決できないだろう。民主主義の政党は有権者が望むことを行うものだ。そして、たいていの有権者は高い税金を課せられる解決策や、短期的にガソリンが高くなったり、電気料金が上がったりすることに反対である。
 悲しいことに地球社会は2つの不十分な統治システムを選んでしまっている。それは資本主義と民主主義で、どちらも短期的に効果をあげることを優先しがちだ。短期志向は『2052』が予測する危機を引き起こす元凶である。我々は孫の世代の生活を良くするために今日犠牲を払おうとはしない。