藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成功の模倣はないだろうこと。

よく自分たち(特に自分)は成功者の足跡をたどることと、成功することを重ね合わせる。
市中の書店に成功談を扱うコーナーがあるくらい、「具体的な成功」は自分たちの日常にとって魅力的なものなのである。
何かそれで自らが追体験できるのでは、というあるいは似たような気持ちになれるのでは、というような淡い気持ちがいつもある。


だが、現実はイチロージョブズの軌跡を追っても、何か自分にプラスにできるわけもなく、さすが成功者とはそういうものか、とひとしきり感心してお終い、というのがお定まりのコース。
何か成功した人の話を聞けば、自分もその仲間入りができるのではないか?というスケベ根性丸出しで、よくそういう本にも手を伸ばす。(多分そういう人はスケベであると思う)
それでも、次々と新しい英雄伝が興味を惹くのは、そうした「苦労が報われる」という話が自分たちは生来好きなのに違いない。
まあ胸がスッとするのだろう。

正直者がバカを見る、とか地道な努力が蹴散らされる、などという物語は、見ていて意外性はあるものの、心の縁(よすが)がない。

自分たちは常にサイコロの目を転がしながら、その日の賽の目に一喜一憂してその日暮しをしているのではなく、将来のために現在があり、過去も何かの「足し」になったはずだ、と思いたいし、また実際の日常とはそういうものだろう。
どれだけ足しになったかは別として。

というわけで、やはり日ごろの習慣は大事にしなければならない、と改めて思う。
小さなことでも五年、十年と積み上げていければ「何もなかった」というのに比べて全然違う。
あらためて、「向こう十年かけて積み上げゆく物は何か」ということを考え直したい。