藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

また聞きと受け売り。

糸井さんのブログより。

 なんにも知らない状態で生まれて、
 あらゆることを教えてもらって生きてきた。

 教わらなくてもできることは、おっぱいを吸うことや、
 おしっこをすること、うんちをすること、眠ること。
 あとは、なにからなにまで、教えてもらった。

その通り、と思う。
さらに。

 教わったことを、たくさん憶えていると、
 それを「じぶんはたくさん考えてた」と
 思いこんでしまう。

 頭のなかの棚や、引き出しに、
 たくさんの「人の考え」を整理してしまっておけば、
 必要に応じて取り出して、
 じぶんの考えのように披露することができる。
 それを職業にすることもできるし、
 それを武器に戦うことだって、きっとできる。

これである。
「自分の引出し」にしまった多くの知識を、今度はあたかも自分の「発案のモノ」という形に取り出す。
これをやる人は実に多い。
そうして「引き出しの中のもの」で勝負している人もとても多いと思う。
だけど、それは「借り物の知識」。
いろんなことに応用したり、また全く違う事象に対応したりしようとすると「考えのコピペ」の面が露出する。
「自分で考えること」と「知っている他人の考えを振り回すこと」はその根っこで異なるのである。

だから、特に楽ではあるけれど「他人の考え」を援用しているのか、それとも自分でオリジナルに考えての結論なのか、は区別して意識していたいものである。
ついつい高邁な評論家の意見を披歴して、「どうです」というような振る舞いに出そうになるが、そうしたスタンドプレイではなく、今一度議論の深まるオリジナリティを追求したいと思うのである。

・「また聞き」と「受け売り」を除外したとして、
 じぶんで考えたことって、どれくらいあるのだろうか。
 
 「無知の知」なんて、かっこいい言い方じゃなくて、
 ちょっとまじめに考えたら、すぐにわかることだ。
 ぼくは(あなたも?)、
 なんにも知らない状態で生まれて、
 あらゆることを教えてもらって生きてきた。
 教わらなくてもできることは、おっぱいを吸うことや、
 おしっこをすること、うんちをすること、眠ること。
 あとは、なにからなにまで、教えてもらった。

 本を読んだり、じぶんで勉強したと思ってることも、
 直接会ってない人に教わったことだと言える。
 勉強したり、人の話を聞いたりしているうちに、
 それをじぶんが考えたような気になってくる。
 
 教わったことを、たくさん憶えていると、
 それを「じぶんはたくさん考えてた」と
 思いこんでしまう。
 頭のなかの棚や、引き出しに、
 たくさんの「人の考え」を整理してしまっておけば、
 必要に応じて取り出して、
 じぶんの考えのように披露することができる。
 それを職業にすることもできるし、
 それを武器に戦うことだって、きっとできる。
  
 だけど、「また聞き」と「受け売り」、
 つまり「引用」や「コピペ」のようなものを
 いったん処分してみて、
 わたしは、どれくらいじぶんで考えたのだろうと、
 棚卸ししてみる必要があるのではないか。
 そんなことを思う。
 
 沈んでるとか、落込んでるとかで言ってるのではない。
 「なんにも知らない」ところからスタートして、
 あらゆることを教わりながら育ってきたというのが、
 ぼく自身の、そして、ぼくらのチームの経験だった。
 気持ちよく「教わりながら育つ」という初心にもどって、
 へたくそなりにじぶんの頭で考えていきたいねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
初心にかえるって、清々しいくらい欲ばりなことだよね。