藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

学問に重要な社会性。

WEBRONZA、天文学者の山内正敏さんのコラムより。

100億と300億の違いは、100万と300万と違いや100と300の違いと同じはずなのに、前者はともすれば数字(シンボル)としての違いに終わってしまって、頭に浮かべられない。これが100と300なら、たとえば秒、日などの時間の単位にしても、人数にしても、ものの個数にしても思い浮かべることができるが、100億と300億ではそういう具体化が出来ないのである。

自分で数えられない(リアリティのない)数字については、イメージして考えることができない。
いわゆる想像の世界、になってしまうのだ。

著者はそれを「数字の巨大化が感覚を麻痺させて、すべての森が同じに見えてしまう危険」と表現する。

そういう弊害が蔓延しているのも、数量の把握の訓練が教育現場にないからではないか。数学も算数も、社会的な意味合いまで含めなければ生きてこない。

「数学の社会的な意味合い」という表現は意味深い。
数学は学究的な学び舎だけの数学ではなく、またマクロ経済の表現的な道具でもなく「数学の社会的な親近感が必要である」という主張にはハッとした。
他の色んな科学的な研究もこの「社会的な意味合い」という部分を意識していく必要性は大きいのに違いない。

山内さんは提案する。

その一方で、歴史の授業では事件の流れだけでなく、その年号を覚えさせられる。
それならば、億の実感、兆の実感をつかませるために、その数字の出て来る金額や木の葉の数、細胞の数等を有効数字1桁で覚えさせてはどうだろうか。そういう実感を持たせることは、大きな無駄を発見するための最低限の条件だと思う次第である。

企業や国や世界が扱う「大きな数字のリアリティ」を「人間の自らの実感できる数字に結びつけて教育する」GDPが800兆円、という発表について、自分の財布を見るようなスケールで「その規模間を把握する感覚」はこれからの政治を考える上では必要な教育だと思った。
どの国も人口が「億」を超え、そのクラスの「数の教育」がこれからはあるべきである。
科学者ゆえの鋭い投げかけではないだろうか。


数字の暗記より数量の把握を年号を覚えさせるより「億」の数字を実感できるようにする教育が必要だ
山内正敏

300円と300万円は4桁違うし、300万円と300億円は4桁違う。そういう意味では全然違う金額だ。だが、これを抽象化して同等に扱うのが数学だ。たとえば、300円と310円の違いと300万円と310万円の違い、300億円と310億円の違いは、 桁が違うだけで比率だけ見れば同等だ。

しかし、同じ質問が社会や理科で出されたらどうだろう? 話は簡単ではない。本稿ではこの問題を考えたい。
消費税率8%への引き上げ前日に値札の切り替え作業をするスーパーの店員=2014年3月31日、福岡市東区、上田幸一撮影


まず、消費税の引き上げの影響を考えてみる。購買意欲に対する影響は金額によって異なる。300円のものが310円になったところで、高くなったと実感こそすれ、10円で買えるものがほとんどない以上、損得感も薄い。だが、300万円のものが310万円になったら、10万円という生活実感上で大きな差に結びつく。しかも300円の商品は日常品が多いから値上げした所で買わざるを得ないが、300万円の商品となると、わずかの値段の差にも慎重になる。そして、この差は、企業レベル、つまり億単位の金の動く世界ではもっと重要になる。つまり最初から%で分かっている金額の差は、金額が高ければ高いほど人は敏感になる。

もっとも、この答えは半分しか正しくない。一般人の視点と企業の視点が混在しているからだ。一般人の視点だけに統一すると、今度は300億円も300億円も同じになってしまう。自分が実際に使う金額の上限を超えると、突然「他人ごと」になってしまうからだ。

次に消費税ではなく、無駄と節約への感度を考える。話を一般人に限定する。
私が以前「宇宙の軍事化は無駄の温床になる」などで書いたように、数百億円クラスの宇宙計画となると、本来の倍のコストがかかっているとしか思えない情報衛星ですら、やり玉にあがることはない。これが数百万円レベルの話、例えば車の購入となると違う。大衆車より数割高い車が必要なのかという議論が起こるだろう。そして、数百円の食材を買うか買わないかとなると、人はなぜか5%の価格差でも品質を吟味するようになる。日常で登場する頻度が高いからこそ、値段と品質の関係、それが贅沢なのかどうかという判断に厳しくなるのだ。

要するに、300円と300万円と300億円の心理的・社会的違いは両方向あるのだ。不幸にして、こうした「現実の数量感覚」は学校では教えない。これを「単なる数字遊びじゃないか」と思う読者がおられるかもしれないが、この教育の不備こそが、国家財政の破綻を招いているとしたら、安穏としていられないはずだ。

まず、大きな数字への不感症は、大きな贅沢が生き残り、小さな贅沢だけが淘汰されるという構造を生む。数百億円クラスのプロジェクトは、そのプロジェクトをどういう方針で進めるかで大きな違いが出るが、それを一般人が実感として批評できないのだ。特に科学技術系や国家機密系は大蔵省の役人にも判断が難しい。

しかし、もっと深刻なのは、借金の場合だ。
住宅ローンなどの借金は、借金の際に収支の概算をする。計画的でない緊急の借金でも、返済計画の見通しが立つうちは返す努力をする。ところが、その目処が立たなくなるや、借金の多寡の感覚が失われて膨れ上がる場合がある。それは会計のプロがいる企業でもそういう例がある。

そしてここからが本命、日本の天文学財政赤字だ。過去30年に渡る贅沢(税収に比べて公共事業や福祉にばらまきすぎたこと)が原因だが、数字が大き過ぎるのと、既得権益であることから、一般人が深刻に考えるに至らなかった。一定水準以内の財政赤字であれば、欧州諸各国のように基準を決めてそれを守ろうと努力するだろうし、他の先進国との比較で頑張ろうとするだろう。その一線すら超えてしまっているのである。もはや、消費税を25%にした上で福祉を大きく切り詰めないと返済不可能レベル、すなわち事実上どんな返済計画も机上の空論となってしまうレベルだ。

恐らく誰もそれがどれほど大変な金額なのか「実感」できておるまい。だからこそ、財政再建がいつも掛け声倒れで終わっているのではないか。運良く、財政赤字が欧米並みに抑えられた場合、将来、同じ轍を踏まないためには、贅沢の大小を判断できる感覚もさることながら、大きな数字、特に億に対する実感を鍛えることは極めて重要だ。

しかし、これは極めて困難である。収支という意味で把握できる金額の上限は、大多数の個人にとっては生涯年収や宝くじの最高金額だろう。偶然の一致だが、これも数億円の世界だ。日本の人口の1億2千万人はぎりぎり理解できても、世界の人口70億という数字になると、それが60億人だろうが80億人だろうが、違いを実感できまい。

そもそも、億を超える数字自体が単位を抜きにして把握しがたい量なのだ。人の寿命が約25億秒なのだから、ある意味当然かもしれない。数字として人間の感覚を越えてしまうのだろう。だからこそ、100億と300億の違いは、100万と300万と違いや100と300の違いと同じはずなのに、前者はともすれば数字(シンボル)としての違いに終わってしまって、頭に浮かべられない。これが100と300なら、たとえば秒、日などの時間の単位にしても、人数にしても、ものの個数にしても思い浮かべることができるが、100億と300億ではそういう具体化が出来ないのである。

不幸にして、今の理科・算数教育に、この種の「億の把握」はない。社会の時間だって、国・自治体レベルの年間予算を覚えさせられた記憶はない。入試にも出ない。そもそも、社会・理科の先生のどれだけがこの違いを理解しているかすら疑わしい。

以前『10円未満の通貨の廃止を提案する』という記事で、端数にこだわることで大きな数字の評価が曖昧になる「木を見て森を見ぬ」弊害を書いた。今回は逆に、数字の巨大化が感覚を麻痺させて、すべての森が同じに見えてしまう危険を書いた。そういう弊害が蔓延しているのも、数量の把握の訓練が教育現場にないからではないか。数学も算数も、社会的な意味合いまで含めなければ生きてこない。

その一方で、歴史の授業では事件の流れだけでなく、その年号を覚えさせられる。それならば、億の実感、兆の実感をつかませるために、その数字の出て来る金額や木の葉の数、細胞の数等を有効数字1桁で覚えさせてはどうだろうか。そういう実感を持たせることは、大きな無駄を発見するための最低限の条件だと思う次第である。