藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

時間貧乏性。

唐突だけれど、「突然時間が空くこと」は秘かに楽しい。

古くは小中学校の先生が風邪で休んだりしたとき。
大学の先生の休講とか。
社会人になってからは、アポの相手の手違いとか急用とか。
はたまたアポの時間の勘違いとか。
デートの待ち合わせのすっぽかしとかキャンセルとか。

どれも「うほっ!」と思う。
例えば13時の約束を「えっ?午後三時では?」とか言われる。
自分はもう相手先に着いているいるので、そのまま二時間の自由時間がもたらされるわけだ。

こんな感情になるのは多分自分の性格の問題だ。
大体、あまり時間に余裕を持って行動できない。
アポがあると、なぜか直前まで「その他のこと」に執着してしまうのである。
無理にやりかけの作業を挟んでみたり、はたまた椅子に腰かけてパラパラと雑誌をめくってぼーっとしてみたり。
で、定刻直前になってお決まりのように慌ててしまうのである。
それはともかく。

アポの予定の時間通りに行動して、急きょ空いた二三時間はまるでいたずらっ子の宝物のようだ。
そりゃもう本屋をフリーに散策してみたり、道端の居酒屋のハッピータイムに飛び込んでみたり、はたまた来週に上げなきゃいけない企画書のことを改めて考えてみたり。
全く自由につかっていい空白の数時間ほどワクワクするものはない。
こういう感覚が事前に作れればずい分と生活の質も変わるんだろうなぁ、などと思う。

・歩いて会社に行く途中に、いくつかの信号を渡ります。
 青山の信号は、どれも待たせ時間が長いので、
 できることなら待ちたくはないと思っています。 
 ちょっと先の信号が、いま青なのか赤なのか、
 ある程度近くに行けば見えますから、
 赤でまだ渡れないなと思うときには、
 ちょっとだけ歩く速度を遅くして、
 すっと渡れるように調整をします。
 その逆に、離れたところから見えた信号が青で、
 「さぁ、いま渡れますよ、どうぞ」という場合には、
 じぶんがその横断歩道にさしかかったところで
 赤になってしまう可能性もあります。
 そうすると、まるまる待たされることになるので、
 速めに歩くようにしたりもします。
 いや、ときには、駆け足で、ダッシュすることもある。
 たとえば真夏の炎天下、走るのはつらいのですが、
 じいっと信号が変わるのを待つのもつらいので、走る。
 
 このあたりまでがまんして読んでくれた人は、
 まったく無内容なこの文章に飽きはじめているでしょう。
 それでいいのです、信号待ち時間の無内容さと
 同じようなつまらなさを、感じていただいているのです。
 
 待つのもつまらない、走るのもつらい。
 毎日出勤の時間に、正解のない悩みを抱えていました。
 しかし、いまは、練習をしているのであります。
 「そういうとき、タケイさんは絶対に走らない」
 という情報を耳にしたからなのであります。
 信号との偶然の出合いに逆らわずに、
 ただ平然と待つ、あるいは歩く。
 そのほうが美しい行為である、ということらしい。
 ぼくは、それをまねしようと思ったのです。

 なぜに、信号ひとつのことでこれほどジタバタするのか。
 じぶんのことが、ちょっと阿呆に思えたのでした。
 ‥‥んだもんでね、目の前の信号、好きにしなさい、と。
 信号よ、おまえはただの赤やら青やらにしか過ぎない。
 そんなもののせいで、ダッシュなんかしてた俺よ、
 もうやめよう、そんな馬鹿なことは‥‥と思ってね、
 じっと信号待ちをする老紳士の練習をしているのです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
世のラーメンのスープがしょっぱくなってるのも悩み〜。