藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

不細工ですが。

年をとっても若々しくて溌溂としている人はよく「昔話はやめましょう」という。
逆に過去の栄光しか語らない人もいる。
どちらがカッコいいかというとやっぱり未来を語る人だという気がする。
なぜそう感じるのかなぁと思ったら「そりゃ過去を語る方が圧倒的に楽だから」だ。
過去の事実は動かないから、そこに自分なりの解釈とか言い訳とか意義とかを貼り付けていくのは、ある種安定的な行為である。
結構独善的に好きな解釈を塗り込めることも可能だ。

それに比べて未来の話は不安定だ。
確定した事実はないから確かに読み切れるものでもない。
けれど「どう転ぶかわからない将来の話」は決定的に自由である。
とんでもない無理筋の話でも、努力や運次第では実現するかもしれない。
「これからの自由があるかどうか」という点では不安定だけれど、過去にはない夢が未来にはある。

だから未来を語り、それもできるだけ明るい未来のことを考えて、「それに必要な物とか足りないこと」を考えることには"チャレンジするカッコよさ"があるのじゃないだろうか。
落ち着いていて、いかにも偉そうな感じがするのは「過去を語る人」かもしれないけれど、あまりカッコよくないけど未来を語るおっさんでありたいと思うのでした。