藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

アマチュアにならないために。

自分はこれでメシを食っている、という言い回しを聞くたびにその人がお茶碗に白いご飯を盛って食べている姿が頭に浮かぶのは自分だけだろうか。
それはともかく。

好きなことをそのまま仕事にするというのは、いざそうしてみると大変なことだと聞く。
「生活の糧」ということと「好きなこと」というのが全く同一線上にあると、「プロ意識と好き嫌い」が反発し合うのだろう。
「仕事のためだ」と自分を律して臨むというのは、趣味に打ち込むそれとは別物だというのはなんとなく分かる気がする。
一番好きなことだけど、それを仕事にした途端「息を抜く」とか「休んでボケっとしてみる」とかいうアマチュア的なことが許されなくなるだろうし。

プロとしてお金をもらうというのはそれだけえらく厳しいことなのだ。

プロの定義は「常に一定レベル以上の結果を出せる」とか「常に相手を満足させる」ということだと思うが、なによりもそのプロ意識として、

「自分の仕事の成果」と「お客の評価」が「ま正面からやり取りされる場にいる」という当事者意識があるということではないだろうか。

遊びや気まぐれではなく、金額の大小ということでもなく、真剣勝負でしかない世界。
芸能スポーツとか音楽とかの世界ならそんなプロの仕事もイメージしやすいのだが、一般企業になると途端にプロとアマの境界が曖昧になる気がするのは自分だけだろうか。

そういえば一般の企業にもきっちりと「プロ意識」を持って常に厳しく仕事をする人はいる。
派手な舞台装置もないし、多数の観客もいないけれど、それでメシを食っているのなら「プロの仕事だな」と思われるような仕事をしていきたいものだと思う。

・「好きな仕事でめしを食っていけたらいいなぁ」とは、
 おそらくだれでも思うようなことだろう。 
 もともと好きだったことを職業にしている人は、
 たしかにいるし、しかもけっこうな数いる。
 それについては、ぼくもずいぶん考えてきたが、
 いまだに、うまく説明のつかないことばかりだ。
 
 好きなことで、それを仕事として始めることはたやすい。
 ギターが好きでうまいなら、バンドマンにもなれるし、
 人にその演奏を聴かせるような仕事はあるだろう。
 料理が好きな人が、料理人になることもできると思う。
 文章を書くのが好きな人が、それを仕事にすることも、
 絵を描くのが好きな人が、それを仕事にすることも、
 やればなんとか始められるものだろう。
 誰かが、なにかしらを依頼してくれればいいだけだ。
 いや、いまのようなインターネットの時代なら、
 誰にも依頼されないままで、職業を名乗ることもできる。
 
 そしたら、好きなことを仕事にしているのだから、
 毎日、好きなことを一所懸命にやっているばかりで、
 楽しくてしょうがないという時間が過ごせる
 ‥‥ともかぎらないんだなぁ、これが。
 好きなだけでできていることが、尽きる、というか、
 もっと上の「なにか」がないと、やっていけなくなる。
 それがなんなのか、どういうものなのか、
 ひたすらに訓練していれば身につくものなのか。
 どれだけ考えても、見つかったりするものでもない。
 この段階でやめてしまえば、なんの問題もない。
 楽しかったという思い出が残るだけだから。

 やめずに続けるということになると、ここからは、
 好きだとか楽しいだとかいうこととは、
 ちょっと別のなにかになってくる。
 「好きじゃないかもしれない」とか「楽しくはない」とか
 人が聞いたらがっかりするようなことも言いたくなる。
 ほんとはね、「別の好き」「別の楽しい」を、
 体内に取り込んじゃったのかもしれないんだけどね。
 「やめるわけにもいかないし」とか、
 「他のことよりは、ちょっとうまくできるから」とか、
 そういうこと思えるまでには、時間もかかるんだよねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
作詞やゲームの原作を続けていたら、苦しかったろうなー。
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