藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

プロのレベル。

練習はやり切った。

イチローとか羽生名人とか。
いつものことだが、トップレベルのプロの発言を聞いて、すぐそのまま自分への参考になどできないのはわかっていても、どうしてもそうしたプロたちの話ってついつい耳をそば立たせて聞いてしまうものだ。

どこかにあやかれる部分はないかしらん。
というあざとい気持ちもあるけれど、尊敬の念を持って接したい。

それにしても「練習はやり切った」と言えるレベルはある種「究極の状態」と言えるのではないか。

仕事でもデートでも準備に「過ぎる」ということはない。
どこまで準備しても足りないところはあるし、また準備に念が入っているほど本番に臨んでも安心感があるものだ。

だから反対に言うと"失敗"って準備不足、ということだ。
だからだから、準備が十分なら「うまくいく」ってことでもありそうだ。

成功とか失敗とかってつまりは準備の話とも言えそうだ。
どうしたってうまくいかないケースって、そりゃあるだろうけどそんなのは気にしなくてもいいだろう。
準備、準備、準備だ。

春秋
2016/8/10 3:30日本経済新聞 朝刊
 時に野球道といい、一球入魂とも聞く。草魂なる言葉をモットーにしていた投手もいた。なぜか、この競技に打ち込む姿は武術や禅の修行を連想させることがある。大リーグ通算3千安打を達成し、観客の歓声に応える42歳のイチロー選手には、古武士の風格があった。

▼目を潤ませながらの記者会見では、偉業を達成する間際の不振を「人に会いたくない時間もあった」と振り返った。しかし、「達成感や満足感を味わうほど前に進める」と聞けば、飽くことのない鍛錬の日々が思われて頭が下がる。「野球殿堂入りより、明日の試合に出たい」との弁には、「求道」の二文字さえ浮かんだ。

曹洞宗の祖、道元は言う。「修(しゅ)せざるにはあらはれず、証せざるには得る事無し」。誰しも仏の資質は心に備えるが、自ら修行し、悟りを得る過程を経なければ現れてこない、との意味だろう。人間の秘めた才能と、それを開花させるための努力の関係にもいえる。アスリートらは実践を通じ、とうに気付いているはずだ。

リオデジャネイロ五輪も日本のメダルラッシュだ。内村航平選手ら体操男子団体の5人の若武者は、予選や決勝でのミスをチームで補い合い金に輝いた。イチロー選手と5人に共通するのは陥った苦境からの見事なリカバリー。「練習はやりきった」との誇りが栄光を呼び込んだのだ。まさに「修せざるにはあらはれず」。