日経より。
STAP細胞の再現にドイツの研究室が成功たという話。
ますます報道は右に寄ったり左に寄ったりで、往年のスポーツ新聞を読むように「一体果たしてそうなのか」という疑問がわく。
マスコミの報道を盲信しない、という意味では随分と情報の耐性ができてきたように思うけれど、それにしても「バッシング体質」が鼻につく気がする。
荒っぽくリスクを取りにいかないと、出し抜かれるのは必然だ。
研究とビジネスでは、本来その目的が異なっているが、高度資本主義社会において両者は分かちがたく結びついている。
結局「結果次第」でその間の事実と報道は「完全にねじ曲げられる」というのが史実でしかないのか。
戦争の歴史は「勝った国によって編纂される」と言われるが、それを穿って事実を報道してこそのメディアに違いない。
今のネット時代だからこそ「本物の報道」の真価が問われてくるだろう。
もうトップ記事で争う時代から「いち早く真実を封じる時代」に入っているような気がする。
劇場型、叩き型の報道には自分たち視聴者が"no"と言わねばならないと思う。
国民性ゆえ 上田岳弘
2016/8/15付日本経済新聞 夕刊
一昨年の年初、理化学研究所の女性がリーダーを務める研究ユニットが、STAP細胞と呼ばれる万能細胞の生成に成功したとのニュースが流れた。Wikipediaによると、「動物の分化した細胞に弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激を与えて再び分化する能力を獲得させたとされた細胞」とある。万能細胞とは文字通り、人工的に体の一部を作り出すことができる細胞だ。ヒトの受精卵を使う必要がないのはiPS細胞と同じだが、STAP細胞は簡単に作れることで大きく期待された。日本の社会は、リーダーの小保方晴子氏が若い女性であることをまずは肯定的に捉え、過剰に注目した。その直後、世論は本件に否定的になり、今度は小保方氏の周辺に疑惑の目が向けられた。氏の論文は撤回され、STAPにとって残念なことに、この現象は存在しないことになった。捏造(ねつぞう)と断定されたこの研究に、今さら手を付ける者は世界中どこにもいない、とも言われた。
しかし予想は外れ、STAPに関心を持つ研究者は世界に存在していた。今春、ドイツのハイデルベルク大学の研究チームが、小保方氏の手法を修正して、独自にSTAP現象の再現に成功したと発表した。成功の真偽はともかく、我が国にそれを悔しがっている風潮は今の所なさそうだ。この二年間社会が注力してきたのは、小保方氏の実験が捏造であることの説明だった。今回もまた、ドイツの権威ある大学による手法が、小保方氏のプロトコルといかに違っているかを世間は知りたがっているのだろうか。あるいは、外国の研究者に対しても捏造疑惑が浮かぶのを待っているのかもしれない。
明治時代に陸軍軍医総監まで昇りつめた森鴎外は、軍に蔓延(はびこ)る脚気(かっけ)の原因を見誤り、経験的に効果がみられていた麦食を禁止する措置をとった。脚気細菌説に則(のっと)って論文を著し、海軍軍医による兵食改善の意見を排除した。結果として多くの兵士が死んだが、後からとやかく言うのは簡単である。当時の陸軍においては、ドイツの細菌学が主流だった。ドイツ留学中に細菌学の開祖であるコッホに師事し、陸軍中央部という権威に従った森鴎外一人を責めるのは酷だろう。これは個人による過ちではなく、長い物には巻かれよという、我が国の国民性が招いた結果であると僕は思う。真実を見極めることが困難な時でも、社会は真実らしくみえるものに従って判断を下していくものなのだから。
国民性ゆえ、僕らの国において人と違った行動をとるのはリスクの高いことだ。まして新しいことをやろうとする場合、当然その初期において、多くの誤りを犯すことになる。すべてを証明できてから行動するのが万全な手順かもしれないが、それでは国家間競争に負ける。荒っぽくリスクを取りにいかないと、出し抜かれるのは必然だ。研究とビジネスでは、本来その目的が異なっているが、高度資本主義社会において両者は分かちがたく結びついている。
YouTubeは、自由に動画を投稿・視聴できる革新性がうけたが、開始当初は、著作権保護の対策をかい潜(くぐ)って投稿される動画も多かった。それに対する批判に屈していたなら、今の隆盛はなかっただろう。利便性と秩序維持が秤(はかり)にかけられた結果、生き残ったのだ。仮に今の日本でこのサービスが始まっていたとしたら、どうなっていただろう。(作家)