藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

成功例に学ぶ。

長野県の小村が「奇跡の村」と呼ばれる。
81歳の町長はカリスマ経営者のように見えるが、その肉声を聞くと政治とか行政の原点が見えてくるような気がする。
「行政頼みは限界」「議員を連れてきても突っぱねた」。

結局どんな政も「そういう単位」でしかないのではないか。
行政も最小限。
政治も必要以上にパワーをかけず、「力」に頼らず自分達のまとめ役を心がける。
国の補助金そもそもあてにしないこと。
子供の医療費をいち早く無料化。

ローカル村ならではの意思決定の早さと行動を支えたのが小さな政治だった。
大企業とベンチャーの図式にも似ているけれど、特に「向こう何十年も変わらずにやっていけた時代」は過ぎてしまった。
「小さく、早く、きめ細かく」という今のキーワードには既存のやり方が障害になっていると見えることが多い。

既存の成功例から離れ、いかに早く変化できるかがこれからの自分達を方向付けるのに違いない。

過疎と闘った前村長 伊藤喜平さんに聞く 村変えた住民の知恵と汗 行政頼み脱却し自信
 自分らで整備すれば、翌日から生活道路が使える

 長野県南部、天竜川沿いの山あいにある下條村。村長を24年務めて7月24日に退任した伊藤喜平さん(81)の自宅を訪ねた。在任中は、51人いた職員を退職者の不補充によって一時34人(現在38人)に減らすとともに、村が資材費を支給し村民が自分で村道や農道、水路を整備する事業を導入。浮いた資金を子育て支援に充てて人口増を実現し「奇跡の村」とも呼ばれた。

 「24年やってきて大きかったのは一にも二にも職員、村民に意識を変えてもらったこと。当初、職員は効率も成果も考えず、かかったものがコストという意識だった。普通の会社ならつぶれちゃうよ。まず役場の意識改革に着手した。頭の下げ方などを徹底指導した後、交代で民間のホームセンターの店頭に研修に出した。彼らにはカルチャーショックだったわけだ。われわれはこういう努力の上に乗っているということがわかり、それから意識が変わってきたな」

 「次に村民に村の実態をよくよく話し、行政頼みは限界なので皆さんも知恵を出し汗をかいて下さいと頼んだ。100万円に満たない簡便な道路や水路は材料代を払うから自分たちで重機などで整備して下さいと。住民が議員を連れてきて要望しても突っぱねた。やってみると、できてできて。自分たちで汗をかけば次の日から生活道路なんか使えるわけだ。達成感があって満足すると、またやるぞとなる。格安にできるだけでなく、自分たちで知恵を出して村に貢献できるならやろうという意識が醸成されてきた。これはありがたいです。自ら造った物は大事にするので長持ちもする」

 予算はモダンな村営若者定住促進住宅の建設などに回し、10棟124戸を建てた。県南部の中心都市の飯田市まで村から16キロと通勤圏内でもあり、若者世帯の人気を呼んだ。

 「国の補助金を使わなかったのでマイペースで進められた。道普請への協力とか消防団への加入とか入居条件を厳しくした。そうすると地域とのいざこざも起きない。都会では保育所や公園を造るのも地域ともめるそうだが、ナンセンスだな。どうしてこういう社会になったのか。権利はいくらでも主張するけど、義務には知らんぷりする。こんなの直すのは大変だよ」

 やれば達成感が生まれ、さらに考えられる

 いち早く子どもの医療費を高校生まで無料化。補助教員を村単独で配置し学童保育も充実させるなど教育環境も整備した。

「周辺町村からはブーイングだったが、子どもが風邪をひいてもケガをしても無料というのは本当にインパクトがあった。子育て対策を評価して、電子部品メーカーの工場が進出した。昔は電気と水道があればOKだったのが、今は優秀な労働力を何人そろえられますかとくる」

 「人づくりは基本。中学生には班ごとにテーマを決め、村をくまなく見て村会議場で議員になったつもりで質問させてきた。図書館はうまくやっているとか温泉は利用客がなかなか増えないとか。そうすると知らず知らずにふるさと愛が出てくる。役場側は一生懸命答弁し、正式文書を生徒会に送る。取り入れた提案もある。面白いんだ」

 村長就任時は3900人だった人口が05年には4200人を超えた。合計特殊出生率も11〜15年の5年平均で1.88と、15年の全国平均1.46を大きく上回る。しかし15年に人口は再び4000人を割り込んだ。

 「競争が熾烈(しれつ)なんだ。同じような対策を近隣の自治体が始めた。それはそれで結構だと思う。若者向け対策をしなかったら人口は3300人を割っていただろう。若い人はほっとくと出て行きますよ。何か常にアクションを起こさないとね」

 「日本創成会議が『消滅可能性都市』を提議したが、あれは脅しではなく現実。早く咀嚼(そしゃく)してどう底上げするか。マジックはない。紙を一枚一枚積み重ねていくしかないな。大都市は利便性がよく刺激もあるけれど生活費がかかる。長野県の軽井沢町では移住して東京へ新幹線通勤する人が増えているようだが、これからはそういう考えが出てくる。交通体系を整備して遠方でもハンディを負わない社会にしないと。幸い、飯田にはリニア中央新幹線がやってくる」

 「下條村の子どもたちはふるさとに愛着は持っていても、どうしても1回は都会に出て行く。ふるさと回帰の気持ちもあるんだが、そうおめおめと帰れないというプライドもあるわな。そこのところを認めてあげて、帰ってきて再チャレンジできるようにすればいい」

 「日本人はもっと義務感や連帯感を持たないといけない。これだけの生活を日本は営んでいて、何でも国でやれというと、どうするんだ、財政を。国の借金が1050兆円。5人家族で4000万円なんて身震いするほどの金額になっている。こんな借金をしていて刹那的な幸せを追うのはだめだろう。下條でできたことはよそでもできる。都会でも公園の管理など近隣の住民ができるんじゃないか。実際にやると達成感もあり、地域をさらに考えるようになる」

 「それと、もうちょっとほのぼのとしたものが欲しい。泥臭い人間性のようなものがね」

(長野支局長 宮内禎一)

 いとう・きへい 長野県下條村前村長。1935年下條村生まれ。飯田高校卒業。父の入院で進学せず家業の運輸業を継ぐ。ガソリンスタンドや自動車の販売・点検に事業を拡大した。75年に村議に初当選し、3期目は議長に就任。92年の村長選に出馬して98票の僅差で当選した。6期24年務め、引退を表明した。