藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

認知バイアスという怪物。

現代ビジネスより武道家三人の対談。
暗殺教室という漫画がそれほど深い示唆に富んでいるとは知らなかった。
漫画はやっぱり日本の誇れるカルチャーだ。

以前、福岡伸一先生におもしろい話を聞きました。「結局のところ、自然科学者は自分がつくったストーリーの中でしかものが見られない。本当にバイアスがかかっている」と話されていました。

例えば、分子生物学の授業で、大学1年生に顕微鏡で細胞を見させる。「何が見える? それを描いてごらん」というとちゃんと描けないのだそうです。何かわけらないムニュムニュしたものを描いてしまう。

けれども生物学の授業を1年間受けて「細胞膜や核が、ミトコンドリアがあって」といった知識を得た後に同じことをさせると、細胞膜とか核とかミトコンドリアをくっきりと描くのだそうです。同じものを見ているのに、違うものをそこに見ているわけです。

つまり認知バイアスがかかって、「ここにこういうものがあるんだ」と思うと、それが見えるようになる。それを福岡さんは「空目」と呼んでいます。(後略)

科学というそれこそ「最も科学的」であると思い込んでいるものが、実は文学のように情緒的だという。
対談では「認知バイアス」と言われているがほとんど「誤視」だと思う。

これは避けられないことなのです。だから自然科学者に良心があるとすれば、「いま自分が見ているものは、“自分が見たいものだ”」という、いわば自身の病識を持つところにあるのでしょう。自分は対象の形成にコミットしている。だから、どこまでその認知バイアスを引き寄せられるか。「もしかすると空目じゃないかな?」と思えるかどうか。ここが一流の自然科学者かそうじゃないかの境目だと思います。

(つづく)
少し長いが対談を引きます。
面白いのでぜひ。

暗殺教室」はなぜ最高の学び場となるのか? 完全管理社会をタフに生き抜くために 武術と教育の接点を徹底討論

左から光岡英稔氏、内田樹氏、甲野善紀

担任教師を生徒たちが暗殺しようとする……そんな一見、荒唐無稽な設定の漫画『暗殺教室』が大人気だ。この作品に注目した三人の武の達人、内田樹氏・光岡英稔氏・甲野善紀氏に、「教育」と「殺傷技術を学ぶこと」の接点を縦横に語ってもらった。

殺傷技術を学ぶことが、才能を最大化する!?

甲野 内田先生と光岡師範の新著『生存教室』(集英社新書)は漫画の『暗殺教室』を下敷きにしています。光岡師範がこの漫画に興味をもたれたのはなぜですか?

光岡 漫画をお読みでない方もいるとおもうので、少しだけ『暗殺教室』のストーリーを説明します。

暗殺教室』に登場するタコのような外見をもつ「殺せんせー」は、マッハ20で飛ぶなどの能力を用いてあらゆる軍事攻撃を跳ね返すなど、いつでも人類を滅亡の淵に追いやれるだけの実力を備えています。なぜか生徒が卒業を迎える来年3月に地球を破壊すると宣言しています。生徒たちは1年間のうちに「殺せんせー」を暗殺しなくてはなりません。

実は「殺せんせー」は、かつて死神と呼ばれていた世界一の殺し屋でした。捕まえられて、さまざまな実験を行われ、いまのような姿形になったわけです。拷問に等しい実験の過程で出会った監視役みたいな人と仲良くなっていくのですけれど、これが初めて人として扱われた体験でした。

かつて彼は「いかに生徒たちに暗殺の技術を教えるか?」について考えていました。そのことと初めて人として接された時間を経て、「殺せんせー」となったかつての死神は、これまで取り組んでいた考えを教育という現場に持ち込んだ。

つまり生徒たちをよき暗殺者にすると同時に、自分の個性を発見できるような学び方を教え始めます。私が『暗殺教室』に興味を持ったのは、これが自分のテーマでもあったからです。

内田 武術とは煎じ詰めていうと殺傷技術ですよね。そうではあるのですが、実際に私も道場で合気道を教えていてわかるのは、教育と非常になじみがいいということです。人をどうやって効果的に殺したり傷つけたりするかという技術を教えるということが、教育の方法として有効なんです。

どうしてかというと、一人一人が持っている潜在的な可能性や資源をとにかく最大化していくからです。可能性も資源も本人が自分の欠点だと思っているところと裏表になっています。いわば殺す力を磨くことが生きる力を高めている。

大学で教えていた頃は、「生きる力を高める」ことについてうまく伝え切れませんでした。私が関与した結果、才能が豊かに発動した学生というのは、おそらく全体の5%くらいです。かなり歩どまりは低い。

けれども合気道を教えていると、潜在可能性に気がついて伸びていく子たちは20〜30%はいます。学問は「これを覚えておくと役に立つ」だとか就活にプラスとか有用性を目指すわけです。比べて合気道は腕を折ったり投げたりする技を学びます。しかも「実際に使うような場面になってはいけない」と教えるわけですから、まるで有用性はありません。

身につければつけるほど有用性のないものを学ぶほうが、なぜか個性や才能を伸長させていく。

今回、光岡先生から『暗殺教室』を題材に取り上げたいと言われて、改めて気づきました。殺す技術を教えることが、一人一人の持っている才能を最大化する上で極めて有効である。このことをここまではっきりと言い切った作品はかつてなかったのではないでしょうか。

生物は常に戦っている

光岡 「才能の最大化」について言えば、私は19歳でハワイに渡り、そこで武術を教えることになりました。会得したことをいかに次世代に伝えるか。これは『暗殺教室』でたんねんに描かれています。私の場合、教え方を間違えてしまい、うまく育たなかった人もいます。「才能の最大化」には至りませんでした。

光岡秀稔(みつおか・ひでとし)1972年生まれ。日本韓氏意拳学会会長。国際武学研究会代表。

ハワイアンやサモアンだと、放っておいたほうが強くなります。なるべく手を加えず、余計なことを教えない。ただ環境に変化があるということだけを教えておけば、すごく伸びる。

けれども彼らに型のようなものを伝えると、それに拘束されてしまって、一気に弱くなっていく。本来、みなぎっていた本能や血がどんどん消されていくからです。失敗した過去の始末というのは、ほとんどの場合できないと思ったほうがいいですね。

だから、私は他の先生のところに習いに行くことも勧めています。そのほうが伸びる場合もあります。自分なりの始末というより、他力になってしまいますが。やはりなかなか現実は漫画のようにはいきません。

とはいえ、「殺す技術を教えることが、一人一人の持っている才能を最大化する」について、ここまではっきりと言い切った漫画はかつてなかった。これは確かです。

甲野善紀(こうの・よしのり) 1949年生まれ。日本古来の武術の身体操法を古伝書と実技の両面から実践的に研究。

甲野 「殺す技を学ぶことが生きる力を高める」と聞いても、「そんな怖いことはできない」「野蛮だ」という人がいると思いますが、その人にしても体内の白血球は常にいろいろな細菌と戦っているわけです。

生物は常に環境に対応して生きていますが、対応するという中には戦うことも含まれているわけで、そういう意味で言えば、武術というのは好き嫌いの問題を超えて、自覚していなくても生きていることと密接に関わっているわけであり、どんな人も無関係ではいられません。

毎日100人自殺する国で

内田 『暗殺教室』を読んでいない人は、ここまでの話を聞いて、「超生物が暗殺技術を教えて、子供たちが個性を開花させていく」という、なんだか変な話というふうに思っているかもしれません。でも、これ学園ドラマなんですよね。

内田樹(うちだ・たつる)1950年生まれ。神戸女学院大学名誉教授。思想家・武道家

暗殺を教えられているE組は落ちこぼれで、学校全体としては過激な進学校です。E組では、人殺しの技術を懸命に学んでいて、それ以外はひたすら受験勉強をしています。

受験勉強に必死に取り組んでいる生徒たちは相手を陥れようとしたり、明らかにお互いを殺し合っています。比べて暗殺を学ぶE組の子らはお互いを高め合っています。

パリでのテロの際、130人ぐらい亡くなり、大騒動になりました。それについてイスラム法学者中田考先生が「何でそんなに大騒ぎするの? 日本では年間3万人、1日あたり100人が自殺しているのに」とおっしゃった。

確かに飢饉も内戦もテロもないところで、毎日100人ずつ死んでいる。それがどういう日常生活で起きているかというと、例えば上司がどなったり、同級生がいじめたり。そういうことの中で毎日100人が死んでいる。誰かが100人を毎日殺しているわけです。殺している本人は業務上の当然の要求をしただけだと思っているでしょう。

私たちの日常生活は、それと気がつかないで人殺しをしています。逆に「どうやったら人を殺せるか」という技術の鍛錬は殺人を主題化している限り、無意識に人を呪い殺したり、追い詰めたりはしない。

だから「暗殺教室」というのは、E組の子たちのことではなく、E組以外が全部「暗殺教室」です。むしろE組だけが「生存教室」で、あとはそれと知らずに、周りの人間の生きる力を損なっているわけです。それが社会における競争の姿であり、したがって「私たちはフェアに育っている」と思い込んでいる。

光岡 一人一人の個性を生かす。それについて私の場合、武術を通じて何ができるかなと考えています。武術をやりたい人は、どこかでメインストリームから外れたがっている人が多いので、E組的なのかもしれません。そういう意味では一般的に変と言われかねないでしょう。

甲野 まあ、変な人は問題も起こすでしょうが、だからといって、政府が育てたいような「良い人材」をたくさん育てたところで、この先うまくいくとは到底思えません。

「良い」とされていることを積み重ねれば本当に良くなるかというと、いろんな矛盾が増えて行くだけではないでしょうか。「このままではまずい」といえず、体制に対して「はい」というだけのことになってしまいかねませんからね。

甲野 原発の問題を例にとれば明らかですが、現状を何とかしようとしているだけでは革命的な処理方法など開発されないでしょう。原発が大事故を起こした今、本当にこれまでにない発想をして革命的な処理技術を開発する若い人を育てなければならないと思います。だからこそ教育のあり方が本当に大事ですよね。

しかし、現在の文科省の官僚には全く期待できないですね。4月入学を9月にするとか、そんなどうでもいいことに頭を使っていますから。現在はそんなことをやっている場合ではないでしょうにね。

日本の教育に未来はない

内田 日本の教育行政に文句を言っても、もうしょうがないと思うんですよ。この25年ぐらい、教育行政は学校教育を破壊し続けています。

過日、大学ランキングに関する取材で「日本中の大学がグローバル化したのですが、今後はどうなりますか?」と聞かれたのです。「滅びるね」というしかありませんでした。

内田氏と光岡氏の共著『生存教室』

文科省は20年ほど前、人口減を見越して大学を減らそうとしました。教育行政は子供たちの就学機会を増やすための官庁です。したがって学校を増やすことに関してはさまざまなロジックもノウハウもあるけれど、学校を減らすことについてはそのどちらも持っていません。

そこで思いついたのが、規制緩和です。大学を増やせば競争原理が働いて自然淘汰されるだろうと思った。その結果どうなったかというと、ただ増えた。いまや50%近い大学が定員割れです。大学教員は研究や教育よりも志願者集めに奔走しています。

だから日本の大学の論文発行数は2004年から下がる一方です。かつてはアジアで一位でしたが、人口当たりの論文点数は韓国、台湾、中国に抜かれ、かなり低域まで下がり続けています。

教育研究がここまで荒廃しているのに、文科省はこれを全く止める気がありません。はっきり言って、文科省が教育行政を握っている限り、日本の教育に未来はありません。

だから、もうこれはオルタナティブを考えるしかないんです。

甲野 現代の教育の問題は、たくさんありますが、その中でも、教育機関にというより、親に対して一つ言いたいことがあります。

いじめによる子供の自殺が後を絶ちませんが、あれは親なり周囲の大人が子供に対し「学校に行かなくても人は人として生きていけるのだ」と自信を持って示していたら、子供もそんなに追い詰められないと思うのです。

大学が増えて誰でも大学に行けるようになったことで、大学という存在が「大学ぐらい出ていないと恥ずかしい」という見栄の対象になってしまっています。

人が生きているとはどういうことなのか。子供たちが育っていく過程でいかにそれに取り組めるか。これが教育において一番大事だと思います。そのためにも親が深い考えとまでは言わないですけれど、体感を通しての、「生きていく上での自覚」を持つべきですよね。

この事は本当はもっと厳しく問われるべきです。「子供が自殺したのだからそんなことまでは言えない」と思うから、みんな黙っているのかもしれませんが。

内田 いや、なかなか責められませんよ。「学校なんて行かなくていいよ」と親が決然と言っていたらなと思いはしても。

甲野 しかし、根本問題はそこですから、親が自分の中でそれなりの価値観をちゃんと持つべきだと思います。

内田 価値観がちゃんと確立されている親なんて、そんなにいるでしょうか?

甲野 いや、いないから問題なんですよ。

光岡 いまお話の「価値観」についてです。内田先生や甲野先生が言われたことは、私よりも若い世代であっても共感できると思います。「おっしゃるとおり」とみんな言うでしょう。

けれども、言われた通りにやることしか教わっていない中で20歳も過ぎてしまった。一切自分の価値を見出すということを教わったこともない。「じゃあ、私はこれからどうすればいいんですか?」と思う人は多いでしょう。

本宮ひろ志さんの『男一匹ガキ大将』とか『サラリーマン金太郎』を読んで、あの世界観に共感した世代は「がんばればいいんだ」「努力しろ」と言うんですよ。昭和の時代の象徴的な考えです。でも、努力しようがテロは起きたし、原発だって爆発したわけです。

あらゆる努力はした。その上での現状がいまです。そこからスタートしている世代が確実にいます。

この先、私たちはどうしたらいいのか? この問いを抱えている人たちの多さ。それが『暗殺教室』のような作品が世に出る理由でしょう。ですから、これに対しての答えを何らかの方法で提示しないといけない。

科学の限界?

甲野 高度成長期に盛んに言われた「がんばればいいんだ」「努力しろ」といった考えや社会の動向に対して、私は学生時代から根本的に「おかしい」と感じていました。

例えば食物の問題ひとつとってもそうです。断食で難病が治るという実例は結構あります。しかし、現代医学の医師は、人によっては断食などの民間療法を裏では認めるかもしれないですけれど、表立っては全く認めないですよね。

科学は「事実を見る」ことを第一にすると言いながら、断食が明らかに有効であったという確かな結果があるにも関わらず、そのことをなかったことのように無視して認めません。私はそこに、現代科学文明の不誠実さ、理不尽さをものすごく実感したのです。

ですから私が大学生の頃、学生運動がすごく盛んでしたが、全くそれに加担する気が起こりませんでした。その理由は、今もお話しましたように、人間が生きることに関しては、政治運動よりも、もっと根本にある「生きているとはどういうことなのか?」という問題を突き詰める方が先だと思いましたから。

内田 自然科学の分野でも、ちゃんとした人はいます。「科学で全部説明できる」と言うような人は「科学主義者」でしかなく、本当の科学者とは、もっとずっと柔らかいし、豊かだと思います。

以前、福岡伸一先生におもしろい話を聞きました。「結局のところ、自然科学者は自分がつくったストーリーの中でしかものが見られない。本当にバイアスがかかっている」と話されていました。

例えば、分子生物学の授業で、大学1年生に顕微鏡で細胞を見させる。「何が見える? それを描いてごらん」というとちゃんと描けないのだそうです。何かわけらないムニュムニュしたものを描いてしまう。

けれども生物学の授業を1年間受けて「細胞膜や核が、ミトコンドリアがあって」といった知識を得た後に同じことをさせると、細胞膜とか核とかミトコンドリアをくっきりと描くのだそうです。同じものを見ているのに、違うものをそこに見ているわけです。

つまり認知バイアスがかかって、「ここにこういうものがあるんだ」と思うと、それが見えるようになる。それを福岡さんは「空目」と呼んでいます。

光岡 どちらが本当なんですか?

内田 どちらが本当ということはないんです。ある仮説を受け入れた瞬間に、仮説の通りに物が見えるのです。何も知識がないときには見えない。ただ、ぐにゅぐにゅぐにゅっていう輪郭も何もないものがあるだけです。それは対象を見たとはとても言えないわけです。でも、ある時から「ここに細胞があります」と言った瞬間、もうでき合いの物語に乗っかってしまう。

これは避けられないことなのです。だから自然科学者に良心があるとすれば、「いま自分が見ているものは、“自分が見たいものだ”」という、いわば自身の病識を持つところにあるのでしょう。自分は対象の形成にコミットしている。だから、どこまでその認知バイアスを引き寄せられるか。「もしかすると空目じゃないかな?」と思えるかどうか。ここが一流の自然科学者かそうじゃないかの境目だと思います。

光岡 科学の見識はありませんが、科学の普遍性について言うならば、例えば目が見えない人に「電子顕微鏡の向こうに何があるのか」ということを示せる科学でなければ普遍性がないわけですよね。その程度のことを証明して欲しいなとは思います。

社会の価値観からはみ出る勇気を

甲野 確かに現代は、視覚がたいへん優先されている時代ですよね。その視覚ですが、開眼手術が進歩した結果、生まれてすぐ視覚を失った人が視覚を獲得できるようになってきているそうですが、そのことで手術を受けた人がハッピーになったかというと、全然そんなことはないようです。

実際は「まあ、これもひとつの体験ではあるけれど、今まで通り見えなくても全くかまわなかった」という人が最も上手くいった例で、最悪の場合は自殺してしまうそうです。

なぜかというと、生まれてすぐ目が見えなくなった人は、その成長の中で自分の世界を作り上げています。そこに開眼手術をすると、今まで暗闇で平穏に過ごしていたのに、いきなりそこに訳のわからない視覚という情報が入ってくるので、自分の平穏さを保つことができず、鬱になってしまうようです。

なにしろ視覚というのは意識が生まれる以前に自動的に身につくものですから、大人になって意識がハッキリしてから、これを使いこなすのは、とても大変なのです。このことを見ても、人の価値観は無理強いできませんよね。

光岡 『暗殺教室』のA組は現状の価値観に従うことに懸命で、E組の方は「殺せんせー」との出会いによって、社会の価値観よりも自分が活き活きと生きられる道を模索し始める。そちらの方が楽しいし、可能性があります。できれば、そういう選択をしたいし、踏み切れるだけの勇気が欲しい。そう思う若い人も多いと思います。

それには一度、人生が狂う必要があるんだなと思います。順調に真っすぐな道を歩んでいたはずが、急にカーブが多くなるような人生になっていく。

甲野 すべての人がE組になる必要もないし、A組の中にいてもよくものを考えれば見えてくることはきっとあるはずです。ただ、問題は根源的なことを、実は人々は求めていない側面もあるということです。社会というのは、ほどほど有効なことを求めているんですよ。

例えば、世の中をガラリと変えるような発明はすでに成り立っている産業のあり方を変えてしまうから迷惑がられる。それで特許が抹消された例もありますからね。

体制に順応しようとする人にいくら事実を示したところで見ようとしません。それだけ現状維持にかける体制側の権威は大きいということでしょう。

ですから、根源的な問題を指摘する時は暗殺されないようにほどほどやるしかないかもしれないですが、それでも、つい黙っていられなくなって出すぎてしまい、消されるなら、それはそれで仕方がないと思います(笑)。

内田 私もわりと人が言わないことを叫び続けてきています。わりと子供のころからの実感として、誰も言っていないことを言ったとしても、みんな結構「うん」というもんだと思っています。

みんな口にして言っていないけれども、それはうまく言葉に乗せられないだけ。だから「こうなんじゃない?」と言った瞬間に、たくさんの人がうなずくわけです。そう思うと、実は人間は孤立していない。

だから、「何かおかしいんじゃないかな。絶対にこうだと思う」ということを言ってみればいいんですよ。普遍性のある知見であれば、必ず多くの人が黙ってうなずくと思います。それがある限り、孤立することというのはあんまりないと思います。

(構成・尹雄大