藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

見たいものしか見えない。

*[次の世代に]何を見るかは自分で決める。
人間の視野は200度ほどあるらしいが、その中で「見た」と認識できるのはごく一部だという。
つまり「見えている」けれど後からは認識できないものがほとんどなのだ。
 
目はものすごく高性能な器官ではあるけれど、それを処理する頭脳は「自分の見たいもの」を優先しているらしい。
どうりで、日常「すごい量の世の中」の様子を見ているはずが、ほとんど覚えていない。
地下鉄で向かいの席に座った「おにぎりを頬張る女子高生」とか、街中で「気になった居酒屋」とか、ごくごく一つの瞬間しか記憶がない。
人の脳は限りがあるから、そもそもドライブレコーダーのように無限に記憶していてはパンクしてしまうだろう。
上手に間引いて、というか「だいたいは忘れて」いるのが人間のようだ。
 
膨大な量の動画情報の中で「見るもの」と「見ないもの」を選ぶ。
脳の処理には、どうも限界があるので「ごく一部の見たいもの」を見るようにすることが必要なのだろう。
電車の広告も気になる。
街中のお店も気になる。
行き交う人々の表情も気になる…
と気になるものばかりでは、結局「何も気にしていない」ことになりそうだ。
 
さらにネットの情報なんかもあるから…
ますます自分で「きちんと向き合う情報」については心して選ぶ必要があるのだと思う。
 
 
・「見たいものが見える」の法則。
 
釣りをはじめたころ、プロの人とボートに乗っていると、
水を見て「あ、魚いるなぁ」などと急に言われ、
え、どこどことあわてて探したりしたものでした。
ベテランには見えて、ぼくには見えない。
いつも見ている人には見えるんだと感心してました。
 
こどもが生まれると、道を歩いていても、
たくさんこども連れがいることに気づきます。
このごろ多くなったのかなとかも思いますが、
そうじゃなくて、目に入るようになったのです。
それは、犬を飼いはじめると、あちこちで、
よく犬を見かけるようになることも同じです。
 
格闘技ドクターの二重作拓也先生が、
こんなツイートをしていました。
<目の前の景色を見る。
次に目をつぶって例えば「白」と念じてから目を開く。
すると「白系統の色のもの」が優先的に飛び込んでくる。
白は赤でも四角でも何でもよい。
人は自分が見たいものを見て、聞きたいことを聞く。
「何をイメージするか」がその人自身を形づくる。>
前に、池谷裕二先生からも、そういうことを聞きました。
 
魚とか、こどもとか、犬とか、白とか赤とかでなく、
「乱れた世の中」というイメージを持って、
静かに目を開けて生きてみたらどうなるでしょうか。
「世も末だ」と嘆きたくなるようなことが、
世界中に撒き散らされていると思うでしょう。
「恋」を意識して街に出たら、どう見えるでしょう。
「不景気」とイメージして暮らしたらどうでしょう。
「甘いもの」を脳裏に焼き付けて歩いたらどうでしょう。
目に入るものが、それを補強してくれるものごとばかりに
なっていくにちがいありません。
それは繰り返されるほど増強されていきますから、
二重作先生の「何をイメージするかがその人をつくる」は
なかなか素敵であり、恐ろしいことでもあります。
うれしく生きていけるようなものを目にしたいものです。
ぼくも、イメージする「いいもの」を考えてみまーす。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「珍しくて悪い」を探すほうが、商売にはなるのかもなぁ。