藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

大人の胆力。

できることなら、これを読むこどもが、
生きることを好きになるような足跡を残したいと思う。

重たい。
のっけから。
「お前は生きることが好きか?」と問われたらなんと答えるか。
「自分はいま、生かされているから、生きるまでです」と答えるのが精一杯だ。

周囲に「生きることって楽しそうだな」と思ってもらうような生き様。
確かにそれができれば最高かもしれない。はぁ。

それはともかく。

そういうおとうさんやおかあさんの
さまざまな足跡を見て、こどもはまた大人になる。

そうだ。
どんどん大人になると「賢く」なる。
社会の経験値が増える、ということだ。

30、40、50、60、と年を重ねるにつれ賢くなる。
そして"そもそも"を考える。

自分はこんな風に生きた来た。
まあこれは過去のことだ。
もういい。

では、自分はこれから「どのように生きていくのか」。

それを賢くなった頭で考えることになる。
つまり、経験が増えて、知識が増えても、自分の進む道なんておいそれとは判明しない。
「そういうことなのだ」ということがだんだん分かってくるのが「大人になる」ということなのだ。

だから、結構迷いながらも、大人は淡々としていられるのだ。
(ということを子供に言っておく)

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・おとうさんやおかあさんが、
どういうことを思ったり、考えたりしていたか。
こどもは、じぶんが大人になったときに知りたくなる。

いっしょに過ごした時間が長くても、
たくさんいっしょに話したことがあったとしても、
そこであんまり語られなかった
「おとうさん」や「おかあさん」がいる。
家族としてどんな話をしていたのかとは別に、
おとうさんは他の大人たちとなにを語りあっていたのか。
おかあさんはひとりの時間になにを思っていたのか。
そういうことが知りたくなる。

大人になったこどもは、
あるときに、おとうさんもおかあさんも、
ひとりの人間だったということについて、
いまさらのように気がつくからだ。
おとうさん、おかあさん、と呼んでいた人が、
じぶんのような人間だったとしたら、
どんなふうに生きていたのだろうかと興味を持つ。

こんな機械をつくる仕事をしていたんだよだとか、
こういう人に、こういうサービスをしていたよだとか、
うれしいときにはこんな歌をよく歌っただとか、
隠していた恋心があってねだとか、
こんなことをずうっと気に病んでいたんだよだとか、
全然だめだめなことでもいいし、
けっこうりっぱだったことでもいいし、
弱いところがいっぱいあったという事実でもいい。

そういうおとうさんやおかあさんの
さまざまな足跡を見て、こどもはまた大人になる。
おそらく、ぼくのこどもは、自然と、
ぼくがこうして書いている文章を読むことになる。
直接会ったときには「げんき?」とか言い合うだけでも、
そうじゃないぼくのことを知ることができる。
ずいぶん恥ずかしいことでもあるけれど、いいことだ。
ぼくは、ひとりのこんなふうな人間で、
できることなら、これを読むこどもが、
生きることを好きになるような足跡を残したいと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読まれるかもしれない手帳を、いま記しておきましょうよ。