藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

オリジナルとは何か。

子供の頃によく「自分で考えなさい」と言われた記憶がある。
多分小学生のころだ。
今では知的財産とか、著作権という言葉をよく聞くようになった。
そこでだ。

「自分の考え」とはそもそもなんだろう。
ただ「自分だけの気持ち」というのならまだ分かる。
それが「自分だけの思考」だとしたら厄介である。

それって本当に自分の考えだったか?
実は親や友人や先輩から言われたことの「焼き直し」じゃないか?
いやいや、そもそもの古人の伝承が元ではないのか?

自信を持って考えたつもりの「自分の意見」はただの好き嫌いにしても「本当に自分の意思かどうか」と言われると至極不安である。

"○○先生に薫陶を受け"とよく言うが、その先生の影響は少なくなかったりする。
物の善悪とか価値観に関わる「もの差し」のようなものを授かっている場合も多いからだ。

自分だから、の思考って何だろう?

それはともかく。
月に一度、いや年に一度くらいは「この一ヶ月自分なりに考えられたのかな?」と振り返ってみることはどうだろうか。
自分の本能とか、自分の信条とかに「大まかには外れていないか」というような原点回帰の目を持ってははどうだろうか。
年末とかお盆とかいう時期には、そういうことがやりやすいと思う。

お盆に自分を振り返る。
で、一年の計は元旦に…というのはいかがでしょうか。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・二日間、ずうっと家にいた。
昨日の夕食にタクシーで出かけたけれど、
それ以外は、まったく家から出なかった。
事情があって閉じ込められている人は、
外に出たいなぁと思うのだろうけれど、
いまのぼくは、じぶんの勝手で外に出ないだけだ。
なんだか、こういうことをしようと思って、
今年の夏は、京都に来ているような気もする。

・よく、じぶんの頭で考えなきゃダメだと言われる。
それについては、ぼくもまったく大賛成だ。
知識の量だとか、語彙の豊富さだとかに関係なく、
じぶんの頭で考えたことというものには、力がある。
幼いこどもの必死の言いわけなんかが
説得力を持つのも、じぶんの頭で考えたものだからだ。
大人で、いかにもたくさんものを知ってるような人の、
じぶんの頭で考えたと思えないご意見などについては、
これがまったく心にも響かないし、
その人ともっと話そうという気にもなれない。
そう言ってるおまえはどうなのだ、とつっこまれたら、
「どっちの場合もあるけどねー」と答えようかな。

じぶんの頭で考えてないなということは、
けっこう他人にもバレてしまうものだ。
どうしてそうなるかと言えば、おそらくだけれど、
「考えているべき時間を惜しんで、
手早く答えのようなものを探してしまうから」だ。
考えるということは、右往左往したり停滞したりの
あんまり利口そうじゃない時間を費やすものだ。
そこを避けて、だれかの言った正解っぽいものを、
すっと借りてじぶんの口から言ってしまうと、
じぶんの頭はけっきょく、選ぶことに使うだけになる。
そういう人どうしが集まったら、
さらにその傾向は強まるのだろうとも思う。

なにも「ことば」を得られない場所にいさせられたら、
人は、じぶんの頭で考えざるを得なくなって、
ほんとうに考えるということをはじめるのではないか。
だれでも、一度、そこからスタートしたほうがいい
…のかもしれないと考えたりしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
世の中には、考えないままで強く言ってることが多いよね。