藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

立花さんの三冊目。

昨日買った中の一冊。


立花さんの本は、特に「読書遍歴もの」が既に手元にあるので、もう買うまいと思っていた。


しかし気になり、パラパラとはしがきをめくる。

ぼくがよくいうことだが、いいものを書くためには、IO比(インプットとアウトプットの比率)を一〇〇対一くらいに保つ必要がある。
つまり、一冊本を書くためには、百冊本を読めということだ。
ぼくはかれこれおよそ百冊の本(含む共著)を書いてきたが、その百倍の一万冊くらいの本はたしかに読んでいる。


なるほど、とたちまち購入することにする。


自分にとっての「本」。

最近、読書量が増えるにつれ、ある思いが頭を擡(もた)げる。

日に日に意外なテーマと出会い、どんどん興味の対象を増やしていく。
その道には、あらかじめ深く通暁している先駆者がおり、その著作を読むことで、簡単にその「沼」に身を浸し、沈んでゆくことができる。


お前はいったい、これからどれほどの時間、沼に潜れば満足するのだ?、と。

この一文を見つけ、元気付く。

知的人間は、永遠に喉の渇きを満たすことができない宿命に置かれたタンタロスのようなものです。
読んでも読んでも読み足りるということがないのです。
そのような欲望欲求の限りなさをネガティブにとらえる人がいますが、ぼくは、それは間違いだと思います。


そのような欲求の限りなさの中にこそ生命の本質があると思うんです。


人間は限りなく「もっと知りたい」という欲求に衝き動かされて、ここまで歩んできたんです。
(中略)
そして、そのパワー源に押されるようにして、生命進化の頂点で生み出された「人間という種」は、その後も進化をつづけた。
そして何万年にもわたる歴史の果てに、やっとこの現代文明世界にたどりついた。


そしてこの文明世界で、その生命原理がどういう現れ方をしているかといえば、「もっと知りたい」「もっと読みたい」という欲求になっているわけです。
この欲求を失ったら、人類は滅びますよ。この文明世界は滅びます。


「知る」ことによって、もっと先の「よいこと」にたどりつけるかもしれない。


世の中(特に本屋)には、あふれんばかりの「知識」がある。


立花さんの『喉の渇き』という表現がぴったりだ。


ただ、「知識を得る」ことは、ちっとも目的ではない。
自分の生きたい方向の「知」が欲しいのだ。



酒と同様、知識に飲まれず、本と接していく。


それには「迷いのない」、自分の進む「方向と力」が基となるのだろう。


まあしかし、ブログをはじめてここ最近「読書の仕方」だの、「時間の使い方」だの、自分のテーマはどんどん退行している。

あやふやだった「原点」に戻れ、という意味では仕方ないが、やれやれ、と思うのだ。