- 作者: 矢部正秋
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2007/01/16
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引き続く。
この言葉も珠玉、その後ずい分影響を受けている。
やはり色んなことを考えるときの「根っこ」となった。
<自然は飛躍しない。連続律。>
長年の間、漠然とこんなことを考えていたら、興味のある思索に出合った。
「私が何より大切に思い、何より自信を持って言えるのは、自然は飛躍しないということである。
私はこれを連続律と呼んでいる。」
(『知の歴史』ブライアン・マギー/中川純男日本語版監修 BL出版)
万能の天才とよばれた数学者・哲学者のゴットフリート・ライプニッツの言葉である。(中略)
ライプニッツから私は大いなるヒントを得た。
あらゆる事象が連続するなら、問題に対処する解決策も単一ではなく、無数のオプション(選択肢)があるのではないか。(p54-55)
これも大変示唆的だ。
物事は「飛躍しない」。
つまり、ロジック(論理)が必ず存在し、その先に現象がある、ということ。
そして、ロジックを積み上げてゆく限り、無数の選択肢を想定できるのだ。
逆には、
ロジックのないところにあるものは「幻想」だ。
「着想」は突飛でいい。
だがロジックを積み上げられぬなら、本物ではない。
とも言える。
これも大きな気づき。
「連続律」につづき、
緻密に積み上げ、無数のオプションを考えること。
これもとても役に立つ。
自然は飛躍せず、だからこそ(一つ一つの)積み重ねがキモだと。
そして、さらに、その積み重ねを「思いつく限りの数」想定する、と。
すると、ロジックのタワーが幾棟も建設されていくことに。
そんなことを書いていて、何だかプログラミングをしている気分になってきた。
ちょっとワクワクだ。
二分法のワナについて
さて、筆者の言う「無数のオプションの発想」の傍らで口を空けているのが、「白か黒か」の罠だ。
自然界は飛躍せず、また「右か左か」と極端に分類できるものではない、ということをよく理解できる。
<明解な結論は怪しめ、ということ>
(中略)
このように、問題を解決するオプションは数多いものである。
だが、世間はとかく短絡的で、単純を好む。
単純化の最悪の例が「ヒトラーの二分法」である。
二分法は、デマゴーグ(煽動政治家)が大衆を操作し、反対者を排除・粛正するために、歴史的にも繰り返し使われてきた。
敵か見方か。
右か左か。
白か黒か。
善か悪か。
改革か抵抗か。
物事を二者択一の、いずれかに分類してしまう。
二分法はニ人間の本性に強烈に訴えるので、俗受けがしやすい。
大衆にアピールしやすいため、あらゆる世界において、あらゆる人間が陥る病理現象である。
ヒトラーは「言葉の魔力」を駆使し、一兵卒から独裁者に駆け上がった。
彼の人身掌握術はきわめて明快である。
複雑な現実を単純化し、二分法で大衆に提示することである。
肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽か。
大衆は感情的で、理解力に欠け、すぐに忘却してしまう。単純で、粗雑で、繊細な思考を理解しない。
ヒトラーはこのように大衆を蔑視し、権力を獲得するために大衆を操作した。(中略)
ヒトラーは物事が単純に割り切れないことは知っていた。
大衆の感情を操作するために、二分法の問いかけを意図的に使ったのである。
大衆は、半分は正で半分は不正であるとか、あるいは一部は正だが一部は不正だということを決して理解しない。
大衆はヒトラーを熱狂的に支持したが、ヒトラーは大衆を操作の手段としてしか見なかった。(後略)
二分法は、ラクなのだ。
分かりやすく、「その間」にあるものを考えなくていい。
脳はラクしようとして、間のゴチャゴチャをすっ飛ばしたがるのだろう。
これも「思考の怠慢」現象だ。
虚構や幻想に惑わぬために。
しかし、
「大衆は、半分は正で半分は不正であるとか、あるいは一部は正だが一部は不正だということを決して理解しない。」のだとすれば、白も黒もある、という複雑な状況をどのようにして「大衆」にわかってもらうのか。
「結果」を見据えて「よい方に誘導」していくのだと思うが、「大衆」というあいまいな集団相手には悩ましい問題だと思う。
自分もその一人だったりするし。(難)
著者の至言はまだ続く
(その三おわり)