藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

プロ弁護士の仕事術 矢部正秋著(その6)


どんな名医も自分の身内は診ないという。
家族への手術などはご法度だそうだ。
「感情」はさほどにコントロールが難しい。


自分のことこそ、もっとも自分で理解しにくいのかも知れぬ。
この辺りの話題は、最終的には「武道」に通じていると思う。


というか、武道、はそういったこと(無我、無私)が本来のテーマのようだ。


自分の評価者は自分ではないこと

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<自分の評価>

(中略)美人は自分を美人と思ったとたん、美人でなくなる。
その高慢さが、鼻もちならぬ印象を与えてしまう。


美人かどうかは他人が決めることである。


同様に、自分を知者と思う者は知者でなく、
善人と思う者は善人でなく、
エリートと思う者はエリートではない。


真のエリートはエリート意識をもたないものであり、エリート意識のもち主は、「エリートもどき」にすぎない。(p134)



伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏は、若き日をこう述懐している。


ある日課長に


「君を一つ心違いをしている。
人間は自分で自分を評価するものではない。
他人が君を評価するのだ。
君自身がいくら自分はよくやっていると自負しても、他人が、あいつはだめだといえばそれが君の評価だ。
逆に自分ではだめだと思っても、他人がよくやっているといえば、それが君の評価になる」


といわれ、とても大きな衝撃を受けました(05年12月4日付 朝日新聞)


人は自分は他人の評価とは無関係に独自の価値をもつと思っている。


これは幻想である。


残念ながら、ビジネス社会では、他者との相互関係(市場)の中に価値の大半を求めざるを得ない。


自分が「評価の対象にすぎない」と見切るのは不愉快きわまりない。


だが「他人にとっての自分の価値」を冷静に見る冷めた目がないと、この世を上手に渡っていくことはできない。


われわれは、他人にとっては、行きずりの「路傍の石」にすぎないのである。


仕事の本質は、「豊臣秀吉の草履とり」にあり、「自分は能力が高いのに、こんな仕事しか与えられていない」と愚痴るのは間違いである、と解剖学者の養老孟司氏も言っている。(p137-8)

見る「系」を変えること


謙虚さ、とも少し違う。
根本的なこと。


ことビジネス界では「自分を評価する権利は他人にしかない」というのは、いさぎよい。


これもノウハウの一つだ。
こう規定してしまうことで、またも「余計なこだわり」から解放される。


「自分はこれだけやってるのに」とグジュグジュしている時間ほどムダなものはない。


評価は回りがするさ、とあっさり割り切って精進、精進と。


また少し得をしたようだ。(嬉)



<自分を見ることの難しさ>

自分を見るもう一人の自分を「メタエゴ」という。


「メタ」とは「越える、超越する」という意味である。
自分を見つめるもう一人の自分をイメージすることで、自分を見る目が深まる。


若いときには「自分の考える自分」と「他人の目に映る自分」とのギャップに気がつかない。


それは、自分こそがこの世界の唯一の解釈者であるからである。


だが、五〇代を過ぎると、他人の目に映る自分は、「私の考える自分」とはまったく異なることを知るようになる。(後略) (p138)

他人の目に映る自分


ここにも著者の深い経験が記されている。(得)


五〇を過ぎての「他人の目で見た自分」と「自分の考える自分」の差。


自分についての評価者は、「実は他人であること」を意識するまでの大きな道のりだ。


いかに、自分を「客観視」することが困難か。
だが、だからこそ、それに気づくことが自分にとって最も必要なことだと、著者は説く。


本著者にして、五〇代の気づき。
自分など八〇過ぎても、気づかなかったやもしれぬ。


また得をしてしまった。



時空を超えて、ひとっ飛びしたような気分だ。


ともかく「自分」を意識せぬこと。


まだノウハウは続く



(その六おわり)