- 作者: 矢部正秋
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2007/01/16
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今日は、自分をありのままに見つめることと、
風聞に流されず「意見と事実」を見極めること、を。
<自分で考える習慣をつける>
経験主義哲学の開祖で自由主義者のジョン・ロックは、自分で考えることに大切さを、つぎのように語っている。
『学問、政治、宗教を問わず、何も考えずに権威のいいなりになってはいけない。
また、よく考えずに、伝統や社会的な規範にしたがうべきでもない。
自分の頭で考えよ。
事実を直視しものごとの実際のありさまにもとづいて、自分の考えと行動を決めよ。
<知の歴史より>』
(p84)
<直視の意味>
『新明解国語辞典』(第三版 三省堂)によると、直視とは
「過大(過小)評価などの先入観をまったく抜きにして、真実を正しく見つめること」をいう。
同じく即物的とは「具体的なものに即して考えたりなどする様子」をいう。(中略)
常識というものは、ときに行きすぎた考えや偏見を正す作用がある。
だが、同時に、しばしば手垢のついて俗論にすぎない。
常識をつねに疑い、自分で考える習慣を育てることが、直視には大切である。
物事を直視するには、つね日ごろ、人と距離をとって接することが必要である。
人と密着すると、物事を直視する目が曇るものである。
集団志向の社会では、この点を特に注意する必要がある。
(p87-8)
<直視思考の冷たさ>
しかし、即物的思考は「冷徹だ」とか「皮相的だ」と謗られることを覚悟しなければならない。
即物的思考が嫌われるのは、あまりにもリアルな現実を呈示するからである。
日本人は、ともすれば心情とか誠意といった主観的要素を尊重しがちである。
だが、それは素朴にすぎる。
素朴さでは、権力にも悪人にも太刀打ちできない。
人は誰でも体裁屋である。
人は見も蓋もないリアリズムを嫌うものである。
人は幻想と虚飾なしには生きられない。
いや、幻想と虚飾こそは、人間の文化を生み出した母である。
勲章を喜ぶ人、名誉職を誇る人、ブランド品で身を飾る人、有名人との交際を自慢する人など、人は装飾や虚飾によって精神の均衡を保っているところがある。
確かに、ときには過酷な現実には眼をつぶったほうが、精神衛生にはよいであろう。
心理学者の斎藤勇氏によると、現実をきちんと見分ける人は鬱状態になりやすいという。鬱状態の者のほうが現実を正確に見ているという。(中略)
直視や即物的思考は、裸の事実を直截(ちょくせつ)にみるから、ときとして社会の規制の価値観に匕首(あいくち)を突きつけることになる。
直視思考は、しばしば社会から危険視され、誤解されるから、懐深く隠しもち、時と場所に応じて用いることが大切である。
その心構えがないと、直視思考は、ときに災害をあなたにもたらす。
(p113-4)
自分たちは「傷つき屋さん」だということ。
先日、「ものごとを見えないことにする力」という妙なエントリを書いたが。
http://d.hatena.ne.jp/why-newton/20070914
直視したものをそのままに相手に意見していては、人間関係は相当悪くなる。
人は自分の批判にはとても防衛的だ。
「よくぞ言ってくれた」という気持ちより
「あんなこと言いやがって」が勝つ。
坂本竜馬いわく、
「議論はなにも生まぬ。恨みだけを残す」は、けだし明言。
自分もよほど相手と信頼関係がない限り、相手の批判はしない。
よかれと思った批判は「悪かれ」になることが多いから。
どれだけ自分批判、を肥やしにできるか。
自分は、それゆえ、他人の批判によほど落ち着いて耳を傾けたい、と思っている。
相当強く心がけているけれど、それでも防衛本能が勝っているかもしれぬ。
それほど、自分たちは外部からの攻撃を恐れる。
これは、特に最近、強く感じる。
つまり、人はよほど自分のことを客観的に見ていない。
心とはなんと繊細で、弱いものだろうか。
「直視」するのは他人ばかりではない。
他人の意見から自分を直視する、というのも非常に重要。
かっこ悪いとか、恥をかく、とかそんなことはどうでもよい。
自分を批判してくれた人の意見には、よくよく注意して臨むべし、だ。
この本はそんなことも気づかせてくれる。
誰も否定できないものが、事実。
<事実と意見の峻別>
『新明解国語辞典』によると、つぎのようになる。
◇事実
事実とは「実際にあったことがらで、誰も否定することができないもの」である。
「誰も否定することができない」ためには、それなりの証拠の裏づけが必要である。
◇意見
意見とは「ある問題についての、個人の考え」をいう。
つまり、意見は対象についての個人の考え(主観)にすぎない。
必ずしも客観的なものではない。
意見は事実とは異なり、客観的な裏づけを必要としない。
事実はあるかなしかだが、意見は事実とは違い、複数成立する。
だから、「正しい意見」というものはない。
「多数意見」はあっても、「正しい意見」はないのである。
当人が「正しい」と思っても、他人がそう思わなければ客観的に「正しい」とはいえない。
学習院大学名誉教授の木下是雄氏は、次のように指摘する。
「べきである」というかたちに書かれる意見には、どれが「正しい」という基準はありえません。
この種の意見に対して人がよく「その意見は正しい」などというのは、「それは自分の考えに合っている」、あるいは「それは多数意見だ」という意見にすぎません。
私たちはとかく多数意見を「正しい意見」と錯覚するきらいがあるようです。(『実践・言語技術入門』言語技術の会編 朝日新聞社刊)
(p120-1)
「その意見は正しい」というのは、単に「自分の考えに合っている」に過ぎない。
「事実」とは誰にも否定できず、それゆえ客観的なものだ、と。
日常、自分たちの回りにはあらゆる情報が飛び交う。
その中で「事実」としてあるもの、と「○○らしい」という意見は、よく混じり合う。
つい先日も
「○○さんは、契約に厳しい」という話が
「○○さんは、お金に厳しいらしい」となり
「○○さんは、金に汚い」となり
「○○さんは、ひどい人だ」
と最後はとんでもない曖昧な中傷になっていた。
間で伝聞した人たちが、「事実」と「意見」を峻別しなかったからである。
極力、巻き込まれぬよう、踊らぬようにありたい。
そうしてみると、新聞記事や週刊誌などの中にも「意見」と「事実」が混然と混ざり合っているのがわかる。
そうしてみると、(後ほど出てくるが)回りの情報から「決め付けないこと」が重要だ。
自分で確実に確かめていないデータについては、盲信しないこと。
そして、自分の「原理原則(価値観)」に照らして意見を持つことだ。
「風雪の中にも、踊らぬ胆力。」
むう。
だんだん、修行っぽく。