藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分が作る、毎日。


おかしな題名の記事が続いた。
義務教育、の「義務」という言葉がやらされ感を伴って、とてもよろしくない。
ということで脱線した。


そもそも義務教育に盾つきたかったわけではなく。


心が楽しいかどうか


毎日の勉強や仕事は楽しいだろうか。

・楽しすぎ
・とても楽しい
・まあ楽しい
・楽しくもない
・疎ましい
・耐えがたいほど疎ましい
・石のように冷えている


とまあ色んな気持ちがあるだろう


自分などは学生時代は「疎ましい」と「楽しくもない」の間をさ迷っていた。
仕事を始めるようになって「まあ楽しい」と「楽しくもない」の間くらいか。


ともかく、日々起こること、与えられることに対処するだけが毎日だった、という気がする。
突っ込んで言うと「自分から生きている気がしない」というか。


何か

勉強にしろ、
受験にしろ、
就職にしろ、
仕事にしろ、
恋愛にしろ、


すべてに「自主感」がなくやっていた。
つい数年前まで。


心の隅のどこかに「義務感」が鎮座していた。


「どうせ働かねばならない、ならば…」
「どうせ進学するのなら、…」
「どうせ結婚するのなら」

開き直り意識


そう、「どうせ…」というのはある種の諦観をもたらす。

で、それならば、と開き直って、まあ「なかなかの結果」を残したりもするだろう。


この種の開き直り、は割合大事でもあり「素直に開き直れる人」はそれはそれで、「自分の方向」を早めに見つけるので、悪くはない。


そしてもっと不幸なのは「こんなはずではない」とか「別に望んでなんかいない」などといいながら中高年にまで達してしまう場合。

「(さほど)望んで就いた仕事でもなく」
「望んで持った家庭でもなく」
そういや「望んで生きたい人生でもなく」

と漂泊した意識のまま何十年も過ごしてしまうこともある。


これはもったいない!という話。
そもそもはこれが言いたかったのだ。

義務、の上。


そもそも義務教育、という名前もよくなく。
でもそんな中に「割合面白いこと」を見つけてやれている人も。


もし、自分の日常の中で「自発」でない、「何か面白くないこと」があれば。

それは自分の責任、なのだ。

ちょっと性急か。

それは、これから「どんどん変えていける」のだ。


「自分のやりたいこと」だけに。


そのためには。
やりたくない勉強は排す。


で、やりたい勉強だけに入れ替える。


やりたい勉強などなければ。
やりたい仕事でも、ボランティアでも、遊びでも、そんなものに入れ替える。


何にもやりたいもの、が見つからなければ。


そんなはずはなく。
仕事でも、勉強でも、遊びでも、趣味でも、ボランティアでも。


この世のなんでもいい。
自分の気の向くことに、自分の時間を割く。


その代わり、自分のしたいことをするのだ。
その結果は、自分で背負わねばならない。


誰かに、国に、命じられたものではないのだ。


義務として教育を受ける、またそのありがたみを知らないからこそ「やらされ感」などを持つ。
まあ贅沢だし、そもそもの起点がちゃんと認識されていないのだ。

学ぶ人、働く人すべてに「自ら選び、耕していく人生なのだよ」。


ということをもっと話さねば。


少なくとも自分はそんなことをここ最近知った。


それで思うのだ。


お。
これからやりたいことが多過ぎるな、と。