藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

追いかけるために。


ヒーロー不在、などと言う。
まあイチローとか、小沢征爾とか、いないわけでもないが。


どんな人がカッコいいのか、を考える。
若いころならいざ知らず。


ふふ。
容姿端麗などではない。


今はそんなのは寧(むし)ろ薄っぺらいのだが。
当時はそんな外見ばかりが重要だった。


若者の分別、というのは後から見ればまさに「若気の至り」だったことを自らの経験で思い知る、44才か。
(まあそんなことを言っても驚くほどの美人、というのはいるものだが)


時代時代の価値観に


例えば、せいぜい中学ころには、もうカッコいい男子とか人気のマドンナはいたか。
それから年を追うごとに次第に成熟しては来た。

ひたむき(専心)なこと。

真面目なこと。


素直なこと。

そんなことに興味の的は、集約されるのではないか。
先日、同窓会でそれこそひた向きに家庭を持っている同級の女性に会った。

何のてらいも、背伸びもなく、彼女は二人の子供と亭主との生活に「ひた向き」だった。
あまりのその陰日向のなさに、こちらが萎縮する。

自分たちは今、有史以来最も豊かで、科学文明の恩恵に浴する時代に生きている。
それはそれでいい、とも思う。


しかし自分たちはその恩恵から、何を後世に遺そうとしているのか。
遺そうという意識すらあるのだろうか。


経済的なことではなく。
また、自分の抑圧された経験でもなく。


何か、自分たちの「美意識」のようなものを伝えたい。
オレたちの時代はこんなのがカッコよかったのだ、と。


それは次の時代には蔑まれるかもしれぬ。
だが、今の時代の価値観を後世に伝えるのは、それはそれで重要なことなのだろう。


この平成二十年にカッコイイ人。
この人が平成四十年にどれだけ関心を持たれているか。


そんなことを、このデジタル化時代に思う。
もう「昔のこと」とかは関係なく。


全てがデジタルに記憶されているのだろう。