藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

もの思い。


ここ一年、季節の変わり目にちょっと注意していたのだが。
特に「春から夏」への変わり目は今日なのだ、という日のことはよく思い出す。


そして今ごろは日一日、秋へとどんどん近づく。

昔、四季ではいつが好きか?という問いには「春か秋」と答えていたが、今は違うことに気づく。
確実に秋、だと思う。


へぇー、どうした心境の変化かいな、とボケッとしていたら。
何となく思い当たる。
自分の人生と重ねて。


自分の一生の中で今はどんな季節だろうか。

人生八十年、春から始まると考えると、ワンシーズン二十年。
二十歳までが春。
四十までが夏。それから
六十までが秋。
最後が冬。


別に寂しいとかでなく、人生の最後には厳しくも「凜」とした冬がやはりよく似合う。


四十から六十まで。
六十歳はもう「冬の感じ」が濃いだろうから「冬のとば口」のようなものは五十歳あたりから徐々に感じ始めるのだろう。


ある瞬間に「秋が深くなったなあ」とか「もうじき冬だな」とか感じながら、またある日はまだ残暑のような錯覚を覚える日もありながら、混ざり合うようにして時間が過ぎてゆくのだろう。


懐古趣味でなく


人生が春夏秋冬に例えて正しいかどうかはともかく。

少し思い返すと、二十歳までは確かに春だった。
特に楽しい思い出もないのだが、はっきりしていることは「浅慮」だったと思う。


勉強するにも、遊ぶにも、アルバイトをするにも。
何をするにも「考え」がない。
まあ本能に任せ、周囲に呑まれてただ日々を生きていた。
自分にとってはそれが「ただただ若い」ということと同義だったのだと思う。
そうして「何も考えない春」が過ぎ、夏。


二十代、三十代、はそれまでに比べると、いろいろ汗をかいた。
少しは考えるようになった、ともいえる。
仕事とか、恋愛とか、家族とか。


このあたりの項目は、三十代も終わるにつれ、いや四十を過ぎてからようやく、一日一日踏みしめるように、「それらに対する価値観」が煮詰まってくる。
不思議なもので「その道を歩いているあいだ」は自分のロードマップはからきし見えぬものだ。
まあそうして「汗だけかいた」のが自分の夏か。


そして秋。
もうその二十年の第一四半期は終わろうとしているが。(汗)
四つに秋を分けるなら、

初秋。
中秋。
本秋。
晩秋。

てな感じだろうか。

平凡に生きていれば、そして何かが実ってくるのだとすれば、確かに夏を越えた「秋」なのだろうという気がする。


自分は何かを残せるだろうか。


何を残したいのだろうか。