藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

負の連鎖とはいえ。


米の住宅ローンは「リスケ後」も半年経ったら55%が再び返済不能だという。
もともと所得の不安定な人たちが過度な借金を背負い(またそれを金融機関が流動化などして)、その信用不安が出発点とはいえ。
「今は本格的にリストラの対象になってしまい、そりゃますます返済できない人が増える。」


もう過度な借金は負わぬ、という常識と、「消費」への中毒症状が抜ければ「その先」が見えるのではないか。

車は動かなくなるまで乗ればいいし、
乗らずに公共機関や自転車を利用すればいいし、
歩けばもっといいし、
日の出とともに起き(今は六時ごろだね)、夜は少し早めに寝れば24時間営業の店は必要なくなる。

自分の直感では、今為政者に必要なのは「国民を餓死だけはさせない」、だがそれ以外の救済はせぬ、という明確な意思表示ではないか。
(自分が麻生さんならそう言う)

ちょっとワキが甘いかもしれないが、
食糧自給率が低いとか、外国人労働者を増やさぬとか、いろいろ水際でやっていてもいろんなことには「二面性」がある。
(多面性、かな)


だから必ず「対立軸」の賢い意見を宣う人がいて、結局ロジックの「つぶし合い」みたいな構図になる。
こんなの、全然本意ではない。

両立する政策はない


自分たち一般市民が見ていて「なんのこっちゃ?」と思うのはそんな場面だ。
エラい人にはそれなりに理屈も、大義名分も、利益調整も、公平性もあるのだろうが、「いろいろ考慮した結果」だからめちゃくちゃ「焦点のボケた」ようなないようになる。


ゆとり教育とか、拉致問題とか、環境問題とか、金融市場とか、全部。
ただ「国民を餓死させないためにいくらかかるのか」については税収とか、人口の年齢分布とか、年金とか、多くの変数が絡まってきてしまう。


だから「飢えない国、ニッポン」と標榜して徹底してそこだけを見る。
けど全員が働かなくなってはますます国力が細るから、ちゃんと「頑張った人にはそれなりのご褒美」は行きわたるしくみが必要だ。

今どき「餓死ゼロ・犯罪撲滅・ゼロエミッション」くらいをスローガンに国の運営ができれば超優良の国策ではないか。


オバマ政権は公共事業を中心に300万人の雇用を生むという。
一時そんなことが実現したにせよ、「本当に必要でない」なら、そんなニーズは潰える。

有権者


で、非正規雇用契約の人を「できるだけ雇い続けなさい」とか、住宅は追い出さないように、とか言うよりも。


「求める側」も「手当」とか「再就職先」とか、ヌルいことを言っていてはいけぬ。

生きる「糧」のためならなんだって。
という精神でサービス業以外に何でも活路を求めねば。

公共事業は文明の高度成長期のあだ花だ。


求められる仕事ならなんだって。
そしてより「実生活」に近い所に。


そんな関心をもって今の社会を眺むれば、まだまだ我われの周囲に仕事はある。

もう閉塞感に苛まれ、「行き場がない」ように感じるのは、自分たちの視野の狭さではないか。

まだまだ、自分たちが「お役に立てる」場はあるのだ、という視点で身の回りのことに接していたいものだ。