官僚の頂点。
現役の大蔵大臣(この方がエリート感あり)が失態、というか失態を演じそうなまま会見してしまう、というのも頂点(財務省)が堕ちた、ということの象徴なのかもしれぬが。
信じられぬ。
それにしても、ネットでは大騒ぎ。
「セクシーな中川昭一4酌目」などとボロクソである。
こうして見るとこの手のネットでの「風評の書き込み」に力を割いているひと、というのはそれはそれで不気味な感じだ。
自分の「余力」が劇場型の、いわゆる「血祭り」に上がった対象へと向く。
一人ひとりは、それほどの力でなくとも、集積し、一点集中するのがネットの恐ろしさだ。
これまでは拡散して一か所には決して集まることのなかった「軽い発言」が、凸レンズの焦点のように、ネットを経由して一か所に集まっているように見える。
いらぬ噂やゴシップ。
そんなものまでを透明化し、一か所に集めてしまう怖さがネットにはある。
グーグルの試行錯誤。
現在のところ、ウェブの覇者といえるgoogleが、じつは新聞広告を集める、という反転戦略、というか旧メディアへの報復、のようなことをやっていた。
ウェブで「新聞広告の出稿」を促したわけだが。
若い経営陣は結論も早い。
いちいち「大新聞だから」などという躊躇はなかったようだ。
「アナログメディア」からウェブへの誘導はあり、というかむしろ有効だ。
紙で注意を引いて、ウェブへ促す。
その逆の動きはなかなか起きぬらしい。
アナログの神髄は、「そこ」はなかなか最後まで破られぬのではないか、と思いながらもデジタル、ウェブの合理性には舌を巻く。
googleは、今は新聞広告からは撤退するようだが。
近いうちに、google自体がメディアとなって(あるいはそんな系列会社を伴って)「自らが媒体となる」日がくるのではないか。
googleの持っていた透明性、中立性は本来メディアが持っているべき羨望の存在ではないか。
またメディアはその自分の構造ゆえ、あらゆるものから中立、ではいられないことは自分たちがよく知っている。
googleがプレス、メディアとして報道の主体となる日。
ネットがもたらす透明化は、そんな第三のメディア、を生むのかもしれない。