藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

分かってきたこと。


思えば二年前に「ハノン全奏」を試みて以来、手の調子がおかしくなった。
ちょうど厄年で、身体の変調が始まったことも関係したようだ。


そして、それから「練習すること」についていろいろと考えるようになった。
一つには単純に「故障を回復したい」という思いが先行したが、だんだんと「練習そのものの意味」とか「どんな練習が必要か」とか「なぜ必要か」とか「実は全く足りていないものがあるのではないか」とか、稽古ごと、というのはずい分いろいろな角度から物事をかんがえさせられるものだ、ということにも気づく。


ピアノでいえば、若いころに全く気にすることのなかった(でも今思えば、体では感じていた)指の動き。
指は指だけで動くのだろう、くらいにしか思っておらず。

それが指というのは「手の腱」につながっており、
また手の腱は「二の腕の筋」につながっており、
それが上腕部へとつながる。


そこから先は、直の筋肉同士のつながり、というのでもないようだが、もちろん動かすための「神経」は背中を横切り、脊髄へとつながり、どうやらその根元の「骨盤」へと集約されているようだ。

で、何に気付いたかと言えば、「指先」だけを「速く、強く、繊細に動かす」ということには何だか限界があること。
自分のように指だけをがむしゃらに動かすムチャな訓練をすると、その次につながっている「腱」が悲鳴を上げる。


その腱に注意して、また負荷をかけると、今度は二の腕の筋が痛む。
そしていろいろと体調を調べると、どうやらそれが腰にまでつながっている。


したがってまず「指先」を動かす練習をしようとなると、
まず大腿部のストレッチとか、
腰の捻転、とか
上腕部のストレッチとかが必要になる。


そしてようやく「腕」になって二の腕の筋とか、手首とか、指の関節などの柔軟運動に。
何となく体全体が温まったら、ようやく練習開始。


そういえば、ものの教則本などを見てみると、かならず上半身のストレッチ図なんかが書いてある。
自分にはそんなもの必要ないワイ、と軽く見ていたが、手痛い失敗をすることになってしまった。


身体のしくみ


それにしても、少し指先に無理がかかると、「オ、いかんいかん」と休憩して無理のかかった部位をしばしマッサージしているさまは、まるで調子の悪いビンテージカーを運転しているドライバーのようだ。


「ちょっと燃料が濃いな。チョークをみてみるか。」とか
「おお、ちょっとエンジン回し過ぎてカムが悲鳴あげたな。」とか。
自分の筋や筋肉の「キャパ以上」に何かをしようとすると、ムリがかかる。

「脳」がイメージし、命令している状態を表現するのに「自分の体が付いていっていない」という状態がよく分かるというか。

若く、健康に何の不安もない時代は「体のこと」を意識することすら少ない。
風邪とか、ケガをした時にだけ、その「不自由さ」から体の部位に改めて気づく程度だ。


それが頭で意識され、それゆえ今度は「考えながら」壊れぬように配慮しながら体を使う。

老成する、ということは「無限の若さ」を失う代わりに「年寄る自分を使う知恵」を得ることでもある。


若くしてその「両方」を得ている人が天才となるのだろう、などとも思う。
それにしても、練習前にストレッチしている様子は、ご老人たちの朝のラジオ体操みたいな感じで、何か哀愁を帯びているように思えて仕方ない。