藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の体を意識すること。


鍵盤楽器などを練習していて。
つくづく感じること。

人の体は、つくづく「物理的なしくみ」でできていること。

非常にメカニカルだ。


ただしふだんは「それ」を感じることなどほとんどない。
これが不思議である。


自動車とか、船とか飛行機とか。
「それ」の運転中にそれらから「生命」を感じることはない。
あるのは力強い、「メカ」としての動きに尽きる。


三十歳くらいまでは、自分も自分の身体のこと、はそんな風に思っていた。
筋肉痛になっても。
捻挫したり、怪我したりしても。
すぐに元通りに治り、「身体自身」を意識することがなくなる状態になる。


つまり身体のどこもかしこも「自然で無傷」であり、思いのままに機能するので「あること」すら、特に意識しないでいい状態。
一般的な「健康」とはこういう状態である。
よく言う、「失ってから分かる」健康とはそんなものなのだ。



それはともかく。

ここ五年くらいで再開した音楽の習い事。
思わぬ出来事は「練習の制限」だった。
若い時には「練習そのもの」が嫌いだった。


今は練習を渇望して止まない。
だが、「頭」で考えるほどもう「肉体のキャパ」はないようである。
あまりにキツい手指の運動を続けると頭は「もっともっと」と前のめりなのに、もはや「関節や筋肉など」がネ上げる。


そう。
我われは「精神」と「肉体」を比べると「ある年齢」からは精神の強さに肉体が耐えきれなくなる。
また若きトップアスリートたちもよく同様の事態に陥る。
「もっともっと練習を」という精神に「肉体が限界を超える」ということはままある。


理屈を見過ごさないこと


一時、「量」の練習をすればよかろう、と朝夕二時間ほどの時間を「手指の練習曲」のみにあてた。
それほど時間の余裕もないので、練習に割く時間に焦り、段々とムリなスピードで肉体に負担がかかる。
或る日、「明らかな違和感」という形で自身の体に異常を感じ、長期安静を余儀なくされることになった。

芸事は「一日にしてならず」。
一日休めば自分に分かり、
二日休めば師匠に分かり、
三日休まば観客に知れる。


とは有名な故事だが、かといって「意識先行型」のトレーニングありき、では結果なかなか身に付かないようだ。
子供の頃よりも、大人になればなるほど「意識」は成長する。
だから「基礎練習の大切さ」とか「勤勉さ」などについても大人の頭で考え、無理してでもやろうとする。


ところがどっこい。
人の体は、普段は道端に生える草のように、自分では存在自体すら「意識する」ことはないが。
だが立派に物理的なメカニズムを持つ。

関節は酷使すれば痛むし、固い「腱」も摩擦が過ぎれば炎症する。

幼児には意識しなかったが、自分の場合は指の第一から第三関節までが、かなり長く、だから「それ」を素早く、力強く動かすには相当な「筋」の力が必要であり、そこでムリをするゆえに、手首、腱、上腕、首、肩甲骨まわり、椎間板、尾てい骨、に至るまでが酷い違和感を感じ、痛みにもなっていた。


「指、手の甲、手首の酷使」が身体の正中線全体に影響するなんて、東洋医学経絡秘孔ではないが、目の当たりにするまでは信じられなかった。

それに気付いてからは、いろいろと試し、たとえば左手第三指、四指の関節と腱を過酷に動かすと、それは左ひじ前の「筋の根元」を発端として右骨盤の脊椎の付け根にまでダイレクトに反応していることなどが分かってきた。


そして手指をいきなり動かす前に、「腰や足、股関節」などの下肢を入念にストレッチしておくことがとても有効であることも体感して分かってきた。
共に「若いころ」には何らそんな行為は必要なかったものである。

自分のやり方

左右の大腿部を上体を倒しながら交互にストレッチ。
朝起きてからすぐ、数分は時間をかけてゆっくりと伸ばしてゆく。
筋肉や関節からは「プチプチ」と伸びる音すら聞こえながら、身体の体重を預け、力を抜いてストレッチ。
最期には指の関節の間を少しづつ広げながらここもストレッチ。


肩の関節やひじもプルンプルンと旋回運動して、ようやく練習にかかる。
年を経るにつれ、無邪気に体を使えないのは悲しい気もするが、一方自分の身体のパーツくらい、きちんと自分で意識しながら「働かせて」ゆくのは、大人ならではの楽しみのようでもある。


「練習と身体の関係」。
このトシになって、また新しい興味のテーマができた。
肉体と精神の双曲関係には今さらながら驚くばかりだが、精神が熟して来るこれから、より「頭の楽しみ」は増えるのだと思う。
そんなこれからへの期待感、は年とともに増えてゆく。


年を重ねる、ということもなかなかに侮れぬものである。