藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

オバマについて。


渡米して、しばしば尋ねられて印象に残ったのが

「お前の国から見て、オバマはどうだ?」という問いかけ。

特にホワイトカラーの中堅層は「オバマの外観」に関心が高い。


なぜなら彼らが「不満の中心」にいるからである。
彼らの主張は一言でいってしまえば「米国は共産主義になろうとしている」というものだった。


税金の使い方、とか税制とか、労働者への補償とか、金融機関の救済とか、ビッグスリーとか。
オバマのそんな「一連の政策」はこれまでのどの大統領とも違う、ということらしい。


「じゃあ、あなたはブッシュの方が良かったというの?」という反問には、「まだまし」との回答。

オバマは弱者救済ではなく、怠惰な人たちを甘やかしている」と非常に強く主張する。


それを聞いてなるほど、と。
就任以来、その効果を疑問視する声はあるものの、常に分かりやすく、また「弱者保護色」の強いスローガンを標榜してきたオバマ大統領。
アメリカ国民にはそれが信じられない、と映っているらしい。
それは何か。


淘汰こそがアメリ


もう少し突っ込んで訊く。
「税金の使い方の何が気に入らないのか?」
GMは救済すべきだったのか?」
アメリカ人の消費性向に問題はないのか?」


などなど。
それで分かったのは「そういうのが、『全部自己責任』というのがアメリカなのさ」ということらしい。

弱者とか、ハンディのある人の救済は当然だ。これまでも、これからもそれは変わらない。
だが、「だらしない人間(ルーズ、とかno willing to workと表現していた)」は救ってはいけない。

ということ。


オバマはこれを守っていない、という点で中堅層から総スカンを食っている、という一面があるようだ。


そこで司馬遼太郎アメリカ素描を思い出す。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

「決してそこに住むことにない、だが心の中にある憧れの地」という「米国に対する概念」はその分かりやすさにある。


いろんなローカル法を作って優遇したり、補助を出したり、すればするほど「外から見た分かりやすさ」は失われ、見えにくくなる。
米国のどこに行っても、ハンディのある人への保護意識は驚くほど強い。
老人への配慮や車いすで移動する人には誰もが率先して力を貸す。


だが、「それ以外」は救済してはダメなのだ。と。
ファーストクラスとエコノミーの話ではないが、明らか「エコノミーの人」が多いのである。

大多数がファーストクラス、という日はやってこないに違いない。
そんなことは、皆口には出さないが分かっている、のである。

だが、それでいいのである、と言いたいのだろう。


いつかはファーストに乗れるかもしれない、という「モチベーションが何よりも大事なのだ」と彼らの主張からは聞いてとれたように思う。


相対的な弱者の比率が高まっている、昨今の不景気だが、それでもアメリカ人はルールの変更を望まないのだ、という意見は強いのだな、と感じた。
また決してインテリではないだろう人たちも、政治への関心は存外に高く、やはり米大統領は「期待のヒーロー」なのだな、とも実感。


困ったのは「日本は何をしているのだ?」という質問。
「何もできていない」と答えるのも癪で、今は「脱官僚」を模索していると説明したが、今一つ意味が伝わらなかったようである。(嘆)


それにしても「何々に向かって走っている」というのではなく
「官僚機構から逃げている」というのはとても誇らしくないひと時だった。