やるべきことが見えてくる研究者の仕事術―プロフェッショナル根性論
- 作者: 島岡要
- 出版社/メーカー: 羊土社
- 発売日: 2009/08/01
- メディア: 単行本
- 購入: 7人 クリック: 125回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
知識というものについて。
著者はそのブログにおいて、後発ながらもメキメキと頭角を現した実力者、と言える。
が、それはともかく。
ネット時代について、梅田望夫氏に続いて、重要な提言がある。
(前略)情報化社会とは誰もがさまざまな情報に簡単にアクセスできる社会であり、そこで仕事をする上で本当に重要なのは単なる「知識」の集積ではなく、「知恵」として身につけることです。
知恵とは複数の知識がその人のなかでさまざまな思考や体験をもとに有機的に結びつき、生産的なかたちで「Know-How」としてまとまった状態にあると考えられます。
そして、警鐘をならす。
自分たちも心せねばならない。
情報飢餓。
(元マッキンゼーの齋藤嘉則氏は)
知識の習得だけにじかんと労力をかけすぎると、思考のための時間・エネルギーがなくなってしまうことの危険性を指摘しています。
重要なのは知識の習得と思考のバランスです。
そして思考するための最も効果的な方法がアウトプット(自己表現:人にみせるために、自分で考えてものを書く)することです。
そして、アウトプットの思考を深める効用や、そのためのブログの活用へと話は続く。
自分はここでは今のネット社会で、特に若い世代の「情報収集に熱心」でその解釈にあまり熱意を注がない、という姿勢に注意を払いたい。
自分もそうなのだ。
立ち止まろう。
パソコンのデスクトップに、リアルタイムにニュースのヘッドラインを流し。
携帯電話の待ち受け画面もニュースでいっぱい。
まるで時事ニュースに触れていないと、精神が落ち着かないかのような人は意外に多い。
情報中毒。
確かに新しい情報に常に接していれば、何か安心感や、一時的な刺激に触れたような気になり、一見落ち着くようでもある。
だが、先の指摘にある通り、「刺激に反応するばかり」で本来考えるべき時間が蝕まれている。
新聞紙、というのはそういう意味では必要以上に、個人を情報で刺激しなかったので「いい存在だった」のではないか。
ネットとか、携帯端末、というのはその辺、要注意かと思う。
つねに自分の頭をゴミのようなニュースで「ツンツンと」刺激していないか。
自分の情報の「取り込みスタイル」を今一度見つめ直す必要がありそうだ。
テレビとかネットのニュース、というものからここ一年、離れてみての感想。
本当の重要な情報は、それほど日常の「ニュースソース」にはない、ということ。
世界中で起きたトピックをリアルタイムに知ることは、重要なようで、実はとても軽薄なことなのかもしれない。
事件に目を奪われ、その奥にある重要な意味、に気付かないことも多い、と思う。
日々起こるニュースから、何を「知恵」として汲み取れるのか。
それこそが時代を見る目であり、オタオタしない見識というものだろう。
これほどの情報の取得環境から、その本質を見極める。
そんな「不動心」のようなものが益々重要な時代なのだと思う。
「情報のための情報収集」に終始すると、その渦に囚われる。
あくまで自分の「意思を補強するための情報」という思いで周囲と接したいものである。