藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

詫び方の美学。


近くでは横綱朝青龍とか。
ドーピングで糾弾された五輪メダリストとか。


はたまた農水大臣とか。
不祥事を起こした高級官僚とか。
首相の辞任の弁とか。


みんな「引き際の美学」がないことに気づく。


散り方を知らないというか。
ハラキリ、は実際はそんなに潔いものではなかったらしいけれど。
(というか武士道、というのも実戦ではだまし討ちの謀略だったときく)


スポーツでも、ビジネスでも、芸能でも、芸術でも。
特に「人から注目を浴びる人」はまず「それ」から学ばねばならないのではないか。
いやよく考えたら、あまり人目に触れないだけで、我われ一般ピープルもそうかもしれぬ。
散り際にあまりみっともないマネをしない方がいい、という意味ではみな同じである。

まず「散り方」から学ぶこと


過去の柵(しがらみ)もある。
年をとれば、デキる人ほどプライドだってあるだろう。
だが。
だから、それを「超すだけ」の散り方を身に付けていたいものである。
注目を集め、華々しい活躍をした過去があればあるほど、その散り際が不細工だと、余計に幻滅する。


折角の過去の栄光が、よけいに毀損してしまう。
それでも、引っこんで「その世界から死んでしまう」というよりは、なんとしても踏みとどまって、罵声を浴びながらでも地道に努力してゆく方が絶対にいいとは思う。


だが、彼達はヒーローである。

ヒーローには「人格」が伴っていないと、心底尊敬できない。


それは大衆の願望でもあると思う。
日本のヒーローには「精神修養が足りない」と指摘するスポーツ評論家も多い。
(欧州などはそうではないそうだ。それがエリートとも言うらしい。)

むしろそうした人間形成的な(精神面の)教育は、さらにフィジカルにも影響を与え、一層肉体を強化する材料にもなるのではなはいか。


そういうパーソナルな面へのケアは、我われ一般人も気を付けていきたいものだ、と改めて感じた次第です。
やはり精神は、人にとってとても重要な「ソフトウェア」なのだと思えてならない。