週刊ダイヤモンドの記事より。
今答えられると思っての問いではない。
しかし五十になっても答えられなければ人生を無駄に過ごしたことになる―
シュムペーターはドラッカーの父にこう尋ねられ、「何人か一流の経済学者を育てた教師としてし」と答えたという。(何とその通りなこと)
ここでは「人様に覚えてもらうなどとはおこがましい」という謙虚さは持たないという前提である。
他人様にどう映りたいか、を考えることで自分の内面を問う、ということなんである。
私の墓標。
人生の彩色、とでもいうか。
何によって憶えられるか、という話は、自分はどんな色の人生を送ってきたか、というような意味に思える。
七色のカラフルな人生もあれば、
ガンメタのしぶーいのもあるだろうし、
ピンクで楽しそうなのもあれば、
灰色にくすんだものもあるかもしれない。
透明感のあるスーッとしたのもあろうし、
不透明で濁っていたり、こってりしているものもあるかも。
例えば「作家○●△夫、ここに眠る」という墓標に刻む碑文みたいなものか。
墓標と言えば、最高の碑文だな、と思うのが鉄鋼王アンドリューカーネギ。
カッコよすぎて、しばらく机の横に貼り付けていたくらいである。
ちょっと訳してみてほしい。
Here lies a man who knew how to enlist the service of better man than himself.
自分より優れた人物を、自分の周りに集めた男、ここに眠る。
まあ自分の墓石に刻むならこうありたいものだが、まあカーネギーと自分を比べるべくもない。
話が逸れ逸れ。
で「何によって憶えられたいか」だけど、なかなかに絞りにくいテーマである。
超絶技巧のアマチュアピアニスト、というのもあり得ないし、
大事業を為したビジネスマン、というのもないだろうし、
幸せな家庭を築いた男、というのも疑問だし、
ひたすら呑んでいた男、というのはどこにでもいるし、
まああまり思い浮かばない。
ただ、こんなことを考えていて感じるのは、何か「一事を成す」ということではなく、「こんな感じのやつだった」と言ってもらうことの方が、人生では結果重要なのではないか、とやっぱり脂の抜けた結論になるのであった。