藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

インディオにもらったことば。-その二

<生活>

自然な生き方が、健やかな生き方。

こころが乱れたり
からだが病んだら、
歩いてきた道を振り返ってみる。

病んだ生き方を改めれば、
ひとは癒される。

怒りは自分に盛る毒。

内省的。

他人や他所に、自らの生活や心の変化の原因を求めない。

もっとも穏やかな「こころの持ちよう」である。


日本の武道とか、世阿弥花伝書にもあるが、もっとも「自己を安定させる」というのは、つまり心のうちの波を「自己完結」させる、ということなのであり、古くからの道はそれを教えている。
他人に発する怒りなど、そのまま「自分に盛る毒」というのはとても東洋的だけれど、有用な思考だと思う。

思考は、矢のように
放たれたら、的を射る。
注意しないと
自分の放った矢で
倒れることになる。
(ナバホ族の格言)

「他人」に対して放った思考のメッセージは大変な威力を以て「外部に作用」する。
外部への軽はずみなコミュニケーションへの警告を込めたメッセージだと理解する。

祈るような気持ちで生きる。


敬虔に生きるのに、
特別な宗教はいらない。

宗教はどちも
神に帰る踏み石に
過ぎない。
(パウニー族の格言)

少しずつ
少しずつ
行けるところまで
進む。
(クロー族の格言)

生きている間に
よく生きろ。
(アパッチ族の格言)

「祈るような気持ちで生きる」
「少しずつ行けるところまで進む」
「生きている間によく生きる」


どれもそれ以上にコメントの必要がない言葉である。
それにしても「祈るように生きる」とは、まるで東洋の仏道へ帰依した者の境地そのままである。
結局洋の東西は関係なく、人生観というのは「ある価値観」へ収束するのだろうか、などと考える。


<夢>

素晴らしい夢を見て
それを行動に移せ。
(ナボホ族の格言)

すべての夢は
同じ網から
編み出される。
(ホピ族の格言)

<子孫>
人に与え、
与えられるのが
人生。
(モホーク族の格言)

蛙は
棲む池を
飲み尽くしはしない。
(スー族の格言)

どんなことも
7世代先まで考えて
決めなければならない。
(イロコイ族の格言)

目で判断せずに、
こころで判断しろ。
(シャイアン族の格言)

過ちを見て
それを正そうとしなければ
過ちを犯した者と同罪だ。
(オマハ族の格言)

夢と子孫についての格言。
厳格な規律でもあるが、一部族を継承してゆく者としての「規範意識」にあふれた品格を随所に感じる。

「過ちを見て、それを正そうとしなければ、過ちを犯した者と同罪だ。」

とは、まったく現代にもそのまま当てはまる教えである。
いつの時代にも「正義の心」が存在するのは、弱い一人の人間としては誇らしいものである。
義は死なず。


<すべては自然の御心のままに

すべての「偶然」を「必然」とみる、シンクロニシティという概念がある。
アメリカ・インディアン流にいえば、「ひとが正しい道を歩いているときには、必要な時に助けが現れ、物事はトントン拍子で進む」ということだ。

「一期一会」は必然の流れ。
その「一期」を活かして「唯一無二」のものに出来るかどうかは、とにかく本人の心構えにかかっている。
「偶然」と「必然」は同じ。
「同じ」にするのは、ほかならぬ当人である。


すべては自らの気持ちと、心がけと、所作にあり。
ネイティヴ・インディアンの話を聞き、結局自分の心に去来したのは、そんなごく基本的な原則だった。
それを改めて気付く機会を得たことは、とてもよかったと思っている。