藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生に突然の嵐はつきもの。


自分の仕事力の落とし所を把握しよう

 昔、歌舞伎町のミニスカパブで、嫌な客がいると店長に言ったら、「バカヤロー! だから高い時給もらってんだろ!」と怒鳴られた事がある。

 キツイ仕事は高い金をもらえて、楽な仕事は安い時給。たくさんの仕事を経て、そんなことに気付いた。

「そんなこと」を今の世代は気づく「感性」を持っているだろうか。
仕事がないことに文句を言い、仕事の内容に不満を漏らし、「そもそも自分がだれのお役に立っているのか」ということすら見失った労働者。
そんな存在が、今の時代は取り沙汰されることが多いように思う。
もっと原点回帰が必要なのではないか。
都心に、働きやすい仕事が少ない、というのは「仕事がない」ということとはまったく違うのである。


仕事してもらえるお金、の意味。

人の金で生活するっていうのは全く自由がない。今、自分で稼いで、自分の金でごはんを食べる毎日が一番充実している。お金って自由を買えるもので、それで大人になって、自分で行動範囲を広げていけるもの。そして、人生で行き詰まったり、思いもよらない事があった時、次の一手が打てるもの。日本中のおっちゃんとおばちゃんは、そのために毎日毎日それはよく働く。

「お金」は自由を買い、人生の行き詰まりの打開策にもなる。
だから働こう。
そんなシンプルな表現を、自分たちは忘れてしまっていないだろうか。
自分も含めた「日本中のおっちゃんおばちゃんたち」は当り前のように働く。
そこに「疑問」など発生する余地はないのだ。

危機管理の知恵。

 私は19の時に、何のコネもツテもなく上京し、絵の才能なぞ全くないのに、アダルト雑誌のカット描きから始め、ここまで来ました。小さな会社から始めたので、派遣切り、未払いなどは当たり前。その度に、金銭の交渉の仕方や、仕事を切られた時の次の一手を学習していきました。


東京で働いているフリーランスの人間は全員同じです。たくさんの仕事を同時にこなし、うかうかクビになるのを待ったりはしません。人生や仕事には、突然の嵐がつきものなんです。


夫をアルコール依存症とがんで見送り、みんなに色々ねぎらいの言葉をかけてもらいましたが、一番の本音は、「金があってよかったなー」でした。一人の人間を一人の人間として見送るのに、どれだけお金がかかったか。金がなかったら、彼を野良犬のように死なせていたでしょう。そして私の人生も、もっと憎しみの多いものになっていたはずです。

 働くことは生きることです。人が人であることをやめないために、人は働くと信じています。(談)

今の自分の「不遇の処置」を恨むのは、将来でもできること。
「今切られたらどうするか」ということをリアルにイメージしながら、それでも生きてゆくための「色々」を考えることこそが「生命力」の源泉である。
日本は先進国になり過ぎて、「そんな事態」になった時に、ひたすら「周囲の処置」に訴えて、自らはほとんど汗をかいていないひとが多い、と最近思う。
「私は酷い目に会った」と言う人をきちんと救済してくれる社会はすばらしいが、実生活で「それ」を待っていても取り残されるばかり。


口を使うよりも行動である。

「人生に突然の嵐はつきもの」と思えるか。
それとも「突然の嵐の責任を、周囲に求めるか」。

配偶者を病で見送った西原は、その状況で「金」の有難味を語る。
とことんお金で苦労し、自分で稼ぎ、けれど「その価値」を知っているから、その大事なお金で愛する人を送り出すという最高の使い方をしたのである。


「金と憎しみ。そして働くこと。」というのは
シンプルだけれど、人が根本的に掘り下げて考えお金ばならない要素なのだと思う。
目をそむけては、いられない。