藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

宗教の行く道。


宗教にはその宗祖がおり、またその教えを受ける信者がいる。
一方、その「宗教自身」をみずからの政治的・経済的な立場にも導き、「宗教・政治・経済」を渾然一体として扱っているのが現代世界なのである、と思う。


つまり、政治・経済・軍事的に「相手を批判」したり、「侵略したり」するときには「宗教の教義」を矢面に出して演説するくせに、自分たちが批判される側に回ったり、侵略されたりすると「経済的な弱点」を錦の御旗に立て、どうも「論点をすり替えて」しまう。


そして、その時「最も対立する二者」の間では、もちろんフランクな意見交換などされるはずもなく、むしろ周囲の「色んな思惑の持ち主」のおかげでさらに憎悪も増幅し、それに影響される一般人もネズミ算式に増えていくのである。

組織とリーダーの存在。

そう考えると、言説の言うとおり、「米9.11のテロがウサマ氏の指示だった」として、その当事者を抹殺しても、それはさらに「血で血を洗う」戦いの幕開けでしかないだろう。
アメリカとしては、それでも放置はできなかったのだろうけれど。

今、この「敵の首を取った瞬間に"和睦"へ走る」とか、相手を殺さずに(もうムリか)対話の姿勢を見せる、とか。

何か「これまでにない方法」での解決を志向せねば、21世紀も「対立軸の時代」から人類は抜け出せないのではないだろうか。
そして、だからこそ「そろそろ、それは違うのではないか」という人類の英知がこのところメジャーになってきているのだと思う。

組織の全体を表すものとして、その組織のリーダーの首をかけ合って争う。

というのはここ千数百年変わっていない、人間の習性である。
それがこの度ついに、変わろうとしているのではないだろうか。

国家間の交流、外交の価値観にも「全く新しい概念」が求められていると思う。
その肝心なフレームワークが決まるのは、恐らくこの2010年代ではないだろうか。
若者はいまこそ、当事者として意見を発し、考えねばならないと思う。


この世紀を、「二十世紀と同様の理屈」で応酬し合う"対決の構図"にしてはならない。
これからこそ、若者の出番であると強く思うのだ。