藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

全ての構造が変わる時期(2)

郵便料金不正事件で冤罪に遭った村木厚子、元局長のインタビュー記事より。その二。
昨日の続きだが、最後の1答の意味は別の意味で重かった。

(マスコミと捜査機関、国民の)3者にそれぞれバイアスがかかってしまい、一定の方向に(考えが)向かってしまう。事件報道をするマスコミは、裁判で判決が出るまでは推定無罪ということを、強く意識しなければならない

これは、この事件にかかわってきたマスコミには直接の提言であるし、またいわゆる「情報インフラ」をこれまで背負ってきた、"オールドエスタブリッシュメント"の代表であるメディアの存在が、根本的に変わってきつつあることをも示唆するのではないだろうか。
『ゆるぎないマスメディア』というものが、本当に幻想となりつつあり、「個の報道能力」が真に問われる時代に入っているような気がする。


中東各国のネットを媒介とした国民運動、などはそのとば口であり、近々には先進国においても「国意」や「権力」に阿(おもね)ることのない、"真の中立メディア"の出現があるのではないだろうか。
その意味ではwiki leaksや、最近頻発するハッカー達のデモンストレーションは、そんな時代の到来を予感させるに難くない。


司法、立法、行政、報道、そんな「戦後を支えてきたインフラ」が、今再びその存在を問われているように思う。
本当の国民性が問われるのはこれからだろう。
もう衆愚とは言わせてはならないのである。

 ――現在の報道の在り方に対して思うことは。

 「捜査と似ているところがある。私の事件の時も、マスコミは各方面を色々と取材したのだろうが、結局はある流れに沿ったものを報道したがる。例えば10人ぐらいの人間に逮捕された村木はどんな人間かと聞き、たった1人が『彼女は目的のために手段を選ばない人間だ』と言ったとする。仮に他の9人が好意的なコメントだったとしても、マスコミはその1人の話だけを書いたり、別の多数意見と1対1の比率で書いたりする。当時は検察の発表に対する信頼もあったのだろうが、検察以外から出てくる情報をどれだけ取材し、どう取捨選択して報道したのかと問われると、相当なゆがみや偏りがあったことは否定できないはずだ」

 「マスコミは、どんなニュースが喜ばれ注目されるかにとらわれ、大衆受けしやすい方向に偏りやすい。そこに捜査機関も加担して、都合のいい情報を流し、役人の不祥事が報道されれば、良い仕事をしたということになる。これは国民も喜ぶストーリーでもあるので、(マスコミと捜査機関、国民の)3者にそれぞれバイアスがかかってしまい、一定の方向に(考えが)向かってしまう。事件報道をするマスコミは、裁判で判決が出るまでは推定無罪ということを、強く意識しなければならない」