藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

最期の振り返り

夫婦は一対の鏡、というらしい。
そういえば、人間関係はすべて「自分の鏡」ではないか。
友人、恋人、仕事や隣人。
立ち寄るお店や、馴染みの飲み屋。
贔屓の書店やコーヒーショップ。
今なら「amazonの履歴」だって自分の鏡になるのだろうか。

城山三郎さんの「そうか、もう君はいないのか」は二度読んだが、その度に他人の夫婦なのに悲しくて、羨ましくなる。
経済小説や後輩への提言で定評のあった著者だけに、その人生がリアルに回顧されて、とても優しく、でも切なかった。

その後の選者紹介の「たとへば君」「夕鶴・彦市ばなし」「いまも、君を想う」。
どれも夫婦を考え、また先達の言葉としてはよいアドバイスではないだろうか。
さすが書店員。

でもどれもが哀しいのである。

書店員に聞く 亡き妻を思う[文]大嶋辰男  [掲載]2012年10月20日
高齢社会を迎えて、妻に先立たれた夫の問題がクローズアップされている。夫婦は一対の鏡というが、当たり前の日常として傍らにあった妻を失った時、夫は何を思い、何を知るのか。妻に去られた夫たちの本を読んでみた。

紀伊国屋書店 市橋栄一さんのおすすめ
(1)そうか、もう君はいないのか [著]城山三郎
(2)たとへば君 [著]河野裕子永田和宏
(3)夕鶴・彦市ばなし [著]木下順二
 ▽記者のお薦め
(4)いまも、君を想(おも)う [著]川本三郎

■心に残り続ける時の歩み
諸行は無常だ。相思相愛だろうが、ケンカばかりしてようが、どんな夫婦にもいつか「その時」はやってくる。
市橋さんの1冊目(1)『そうか、もう君はいないのか』は作家城山三郎さんが肝臓がんで亡くなった妻、容子さんとの思い出をつづったエッセー集。冷静な筆致で多くの経済小説を書いた城山さんだが、「そのまなざしの先にまばゆいばかりに妻の姿が活写されている。容子さんの死後も、城山さんは心の中で一緒に楽しく踊り続けていたんだろう」と市橋さん。共に過ごした時間は信頼、安らぎ、ぬくもりが満ちあふれていた。城山さんが講演で詰まった時、妻は客席からおどけたポーズをとって夫をリラックスさせた。

(2)『たとへば君』の著者、河野裕子さん、永田和宏さんは歌人の夫婦だ。裕子さんは乳がんのため2年前に他界。本には夫婦として過ごした40年間が、380首の相聞歌と2人のエッセーなどでまとめられている。「恋人として、妻として、夫として、母として、父として、互いに折々の思いを歌に託してきた。それが1冊の本に再編集されたことで、2人の時間が再び流れだし、生きることの生々しさを感じさせる。歌詠みの夫婦でなければ、表現することができなかっただろう『愛の姿』がここにある」(市橋さん)。
 和宏さんは妻に先立たれた後、こんな歌を詠んでいる。〈女々(めめ)しいか それでもいいが石の下にきみを閉ぢこめるなんてできない〉

(3)『夕鶴・彦市ばなし』に収められた『夕鶴』は、劇作家木下順二が民話「鶴の恩返し」を元に近代的手法で書いた戯曲の名作だ。ラストシーン、妻が鶴の姿で飛び去った後、一人残された夫「与ひょう」は「つう……つう……」と妻の名を呼んで立ちつくす。市橋さんは、「人間は悲しみを持つ存在であるがために、その悲しみを夫婦として慈しみ合う」のかもしれないと、深々考えさせられたという。「一見、この戯曲は悲しい話のように読めるが、妻が深い愛情で夫の喪失感を包みながら鶴となって飛んでいく姿は、私の目には希望であるように映りました」

文芸評論家川本三郎さんの(4)『いまも、君を想(おも)う』。ファッション評論家の妻、恵子さんは7歳年下で食道がんで亡くなった。享年57歳。料理上手で「コツは手間を省かないこと」と話していた妻を思い出しながら、夫は〈いま私はとても、もやしのヒゲを取る時間はないし、スペイン・オムレツのジャガイモをきちんと茹(ゆ)でている時間もない〉と独白し、ストレートすぎる、こんな言葉で文章を結んだ。〈家内の料理が懐かしい〉