藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分たちの糧は何か。 

ここ二日ほど、精神を病む先進国の、特に若者のことを考えてみたけれど、畢竟、「周囲の環境はこれまでにないほど恵まれている」ということばかりがはっきりとしていて、その他の経済要因とか、時代背景は特に「個人のメンタル」には直接関係ないようであ る。

そして、この史上最も(経済的に)恵まれた、ITの恩恵にもよくする今の自分たちが、一見「最も元気がない」のはなぜなのか。
それは「成長と伸びの鈍化」のようなものではないだろうか。

もう、地球上の空で、重力の上を無数に自家用車が飛び交う未来はこないだろう。
良くも悪くも、いまの自分たちは「ある種の資源消費の頂点の近く」にいるのだと思う。
これからの課題は、エネルギー政策とか、世界レベルでの貧困対策とか、いわゆる「社会の成熟」に向かっての努力が主になるだろう。

これまでのような「無手勝に何でもやってみればいい」と言う時代ではない、そういう「質素な価値観」が主流になるだろう。
この300年のような「手当たり次第」から「限られた資源配分の政治」の時代になるのである。
そうした時代に、「前世代の感覚でいた人たち」は面食らうだろうし、またそうした時代には、どういった部分に"モチベーション"を持ち続けていくのか、ということも次世代の指標になるだろう。

いよいよ、産業革命後、そして大戦後の価値観を清算し、これからの「イケてる」とか「こうしたい」ということを考える時代に入るような気がする。
いよいよ『自分だけの夢は何か?』ということを自分たちが独自に考える時代に来たのではないだろうか。、

夢と目標を持てたら、強くなれる
岡田武史の「中国細見」2013/6/22 7:00ニュースソース日本経済新聞 電子版
 アメリカと同じで夏に卒業式を迎える中国だが、今年の大学卒業生は過去最高の約700万人に達するそうだ。日本は60万人程度というから、その10倍以上のフレッシュな人材がこれから社会に出てくる訳だ。中国の景気も今はそれほど良くないということで、今年は中国でもまれに見るほどの就職難と聞く。中国の若者たちも大変なのだ。
■マスコミ就活の苦い思い出
テレビ局に入社していたら、今どうなっていただろう
 かくいう私も、もう数十年も前のことになるが、就職活動を経験した。早稲田大学サッカー部でキャプテンをしていた私には、いくつかの実業団チームが声をかけてくれた(まだJリーグがない時代ですからね)。だが、私は大学時代に結婚もしていたし、女房を養わないといけない。私が通った政経学部にはマスコミ志望の学生が多く、「ペンの暴力」といった問題には私自身、関心があった。実業団からの誘いをすべて断り、「メディアの中から変えてやろう」とマスコミでの就職を目指した。
 それでも、実業団チームを持つ古河電気工業ともう1社だけが、「マスコミに落ちたら来てくれ」と言って下さった。「どちらか一つにしないと相手に失礼だ」ということで、マスコミ試験の前に古河に絞っていた。当時の早稲田の監督がメキシコ五輪で銅メダルを取られた故・宮本征勝さん。その宮本さんが古河からの出向という縁から決めた。
 当時のマスコミの入社試験は10月の第1週にかたまっていた。ただ、この年は「学生のオリンピック」であるユニバーシアード競技大会がメキシコであった。私も日本代表として参加したが、大学リーグの最終戦は例年より後ずれし、リーグ最終戦の週は入社試験と重なってしまった。仕方がないので、監督に「練習を休ませて下さい」とお願いした。当然、「おまえはキャプテンのくせに休むのか」とおっしゃる。それでも「1日だけ、つまり1社だけなら許す」と認めて頂き、それで受けたのが、某在京のテレビ局だった。
 試験は散々だった。面接で、横文字の社名が何の略かも言えず、「やっぱり、君はサッカーを続けた方がいいんじゃないか」とあきれられる始末。見事に落ち、古河に拾ってもらった。
 人生は分からないものだ。サッカーをやめようと思った私がまた社会人でサッカーを続けることになった。日本代表にも選ばれ、代表監督まで務めた。あのとき、マスコミに入っていたら、私はどうなっていたんだろう。
 それはさておき、サッカー指導者の立場になって、私は若い選手たちの能力をどう引き出すかに腐心している。
 心理学には夢や目標の設定を変えると、そこに至るまでの考え方やプロセスを一気に変えられるという説がある。ちょうど、オセロゲームの駒の色が一気に変わるように。
■受け身の若者をどう変えるか
 昨年、私が杭州緑城の監督に就任した時、選手たちはサッカーの能力は高いのに、夢や目標がないと感じた。ならば、まず、選手たちに夢や目標を持たせることで、彼らのサッカーに対する考え方や意識を変えようと考えた。強くなるには「日々の食事はこう」「練習はこう」と様々な事を変えていく必要があった。それを一つ一つ「下」から変えていくのは大変だが、夢や目標という「上」からの意識改革ならば、一気に変えられると思った。
 しかし、今、これはそう簡単にいかないぞ、と思っている。問題の根はもっと深いようなのだ。
地道に選手に意識改革を迫っていこうと思う
 「君には高い能力がある。欧州でもプレーするのも夢ではない」。そう選手に語りかけても、「いやいや、そんなのは無理ですよ」「そこまでしてまで……」とあっけなく言われてしまったりする。
 どうも、彼らは自分で自分の枠を決めてしまっている感がある。夢や目標というものを持とうとしない。あきらめというか、一人ひとりが可能性を信じ切れていないように見える。
 例えば、サッカー協会から「代表に入りなさい」と言われれば、彼らは嫌でも従う。日本なら、代表に行きたくなかったら、行かなくてもいい。自分で自分の道を切り開くことができる。しかし、この国では「上」からの命令は絶対のようだ。そういう社会システムの中で育ってきているからか、彼らは自分で夢や目標を持とうとしない。夢や目標を持つことに現実味を感じられないようだ。日本でも「指示待ち族」などと言うが、この国のサッカー選手たちはどうも、受け身に慣れてしまっている気がする。
 今は地道に選手たちに意識改革を迫るしかないと腹をくくっている。練習メニューにしてもそう。なぜ、今、この練習をやるのか。なぜ、このタイミングで休みにするのか。理由を一つ一つ明示しながら、彼ら自身が納得する形に持っていくしかない。
 改めて、異国での指導の難しさを痛感している。