藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を規定するもの。

大阪がまだ商売の中心であり、またその中で傑出した商人たちが一時代を築いていた、という話。
それにしても、現代でも主要各国の株式市場の動き、はデイリーのニュースに必ず組み入れられており、経済の指標としては第一の存在感を持っている。

為替や株式の相場が「生活の一部」」になっている人は数多いと思うが「相場は生活の全部」という坂口氏の宣言は、今の相場観とはずい分違うのではないだろうか。

相場のトレーディング、というものを職業にして生きていくことの是非とか、覚悟とか、そういうものについて、今の社会は「一職業でしょ」という感じで懸念がないことが問題ではないだろうか。

同様に、どんな職業についても「どうせ食べるためでしょ」という接頭語がついていて、職業そのものに対する「拘り」が薄れているように思うのである。

どの職業も、特定の目的を持っている。
それが相場での切り貼りであれ、農業であれ、小売業であれ、建設業であれ、サービス業であれ。
だから、「なぜその職に就くのか」ということについて、もう少し自分なりのこだわりを持つ必要があるのではないかと思う。

また起業する人にも一言。
ともかく、人と違うことをする。とか
自分でやる。という人がいるが、それは「それ」が自己目的化していると思う。
他人や下界との比較ではなく。
自分が「その職」を選ぶ理由はもう少し深く考えてもよいのではないだろうか。
いずれ転職するにしても、一度は「糧」にするテーマなのである。
相場ならずとも、「その土俵」について、少し後世に語れるような選択をしてもらいたいのである。

相場は生活の全部だ 坂口彦三郎氏
市場経済研究所代表 鍋島高明

坂口彦三郎は大阪株式取引所(大株)草創期からの仲買人だが、お客の注文には目もくれず自己売買専門に相場を張り通す。だから店には老店員が、2〜3人いるだけ。坂口はいう。
 「相場は私の生活の全部です。私は全生命を相場道に打ち込んでいます。そのため時にはお客の注文も邪魔になるくらいです。ハハハ…。相場師は片手間にやるようではいけません。朝から晩まで専門にかかっているくらいの熱心さがなくては成功しないでしょう。ですから一度出動した以上、損するか、もうけるか2つに1つで、他の商売のようにまたやり直すというわけにはいかない。私は思惑が当たったらあくまで利に乗って追撃します。できるだけ頑張ります」
 坂口は「利乗せ」タイプの相場師で、今日でいうトレンドフォロー型である。だから思惑が外れた時はナンピンなどはやらない。いさぎよく投げて、あるいは踏んで、改めて出直す。それにしても、「相場は私の生活の全部です」と言い切れる相場師は北浜でも希少な存在であろう。
 坂口は幼くして堂島の米穀商・奈良佐のでっちとなる。でっち頭に浅井辰蔵がいた。後年堂島で名を上げるくせ者相場師、浅井にしごかれた。
 「先年物故した浅井辰蔵は当時の兄弟子−でっち頭であった、あのひねくれ屋のケチケチ者の浅井にはよくいじめられたものだが、君は生来の負けじ魂と時計のゼンマイみたいなかんしゃくで、いつもかみついたという話。長じて北浜に泳ぎ出し、幾度かの浮沈を経て今日の大成に至った。竹を割ったような気性だが、かんしゃくが強いだけに時に人から誤解されたりする。相場の強弱観などやらかそうものなら総義歯をがつがつさせて盛んに警句をはき、あくの抜けた皮肉も飛ばす」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
 入れ歯をガタガタ言わせながら相場観を闘わす老将坂口彦三郎は、いまや資産300万円と称される大金持ちだが、若いころから勝負事が大好きでバクチで大負けしたことがある。
 お花見と称してバクチに興じ、その日は運に見放され1万数千円の小切手を書く羽目に陥った。「小切手を書きながらポロリと鬼灯(ほおずき)のような涙を流した」というエピソードが残っている。その時以来、相場以外には手を出さなくなった。ただ、女婿の浜崎弁之介(浜崎商店主)が損をした時はやむなく尻ぬぐいをするという。坂口の相場戦術を聞こう。
 「なにごとによらず仕掛けが肝心です。特に相場にかかる時は8分程度にし、2分の余裕を残しておくことにしています。たとえば1,000株買おうと思ったら800株にしておきます。そうでないと、日歩や追い証を取られ、万一思惑が外れた時には他人に迷惑をかけるようなことが起こります、とにかく相場は曲者です。決して人気通りには動きません。一種いうにいわれぬくせがあるものです。立ち会い中の動き方を見ていると、多年の経験から自然にこの味が分かります。わたしはこれによって常に方針を立てることにしているのです」
 当時、北浜でもケイ線が重宝がられていたが、坂口はケイ線には重きをおかない。
 「あれは相場の動いた跡と簡単に分かりやすく書いた帳面みたいなもので相場の材料とすることはできません」。坂口はやはり、立ち会いの値動きの中から相場の味を汲み取る戦法のようだ。
 坂口は艶福家で知られるうえに、浄瑠璃はプロ級とか。だが、相場がなによりの生き甲斐である。
 「私は相場道においては、永年絶対に独立自由の立場をとってきました。それですからお客の注文さえ邪魔にするくらいで、従って自己の意思に反して売買しなければならぬ買い占め団や売り連盟とかに加入することは断じてありません。要するに自分だけの考えで自己の実力の範囲内で相場というものは、やるべきものだと思います」=敬称略
信条
・相場は片手間にやるようではいけない
・相場は私の生活の全部です
・思惑が当たったら利に乗って追撃する
・外れたら投げるか、煎(い)れて損を小さくする
・仕掛けが肝心で、8分程度にして2分の余裕を残す
(さかぐち ひこさぶろう 1859〜没年不詳)
安政6年大阪府で坂口安次郎の長男として生まれ、幼くして堂島の米穀商奈良佐に奉公、明治26年、大阪株式取引所仲買人となり、昭和3年大株取引員組合委員長を務め、のち大株相談役となる。大阪府商業会議所議員。(写真は「大株五十年史」より)