藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

我がことと他人事のはざま。

これだ。

一所懸命にやっているのだろうことはわかるし、
 ひとつずつの項目について、
 もっと練りあげたり磨きこんだりしていったら、
 どこかに「こたえ」が見えるのかもしれないとは思う。

 でもね、どこにも「こういうことをしよう」という
 たったひとつの「アイディア」が見えなかった。
 ひとつひとつ記されていることが、
 「こういうの、あるよね」という顔をしてるのだ。

「こういうの、あるよね」は正に「他人顔」をしている。
こういう顔を見ることはとても多い。
自分のどこかで「これ」に会うたびにげんなりしている。
他人事、って聞いていても甲斐がないものなのだ。
所詮「人ごと」とはよく言ったものだ。

「こういうの、あるよね」は、雑談にしかすぎない。
 「こういうことをしよう」は、「アイディア」になる。
 それは、おそらく、誰にも見分けがつくと思うのだ。
 だから、いくつものことが記されていても、
 「こういうの、あるよね」しか見当たらない場合は、
 口惜しいけれど、まだ「アイディア」が出てない。
 そういうことになる。

特に仕事の場で雑談を聞くことは苦痛である。
雑談はお茶を飲みながら、何も成果を期待しないから楽しい。
仕事場の雑談は仕事の質を劣化させるのだ。

この状態が、けっこう長く続くのが普通だ。
(中略)
 なんにももったいつけることじゃない。
 「アイディア」が出たか出なかったのかは、
 じぶんで判断がつくはずなのである。
 
 それを、判断しないままで提出するのは仕事じゃない。
 オレが出さなきゃ誰が出す、と思いながら出すのだ。

本当に社内訓示のような内容。
だけど仕事の本質を射抜いている。
仕事の要諦はこういうことだと思う。
「オレが出す」。
仕事っていうか人生ってそんなものじゃないだろうか。

05月10日の「今日のダーリン」

・昨日、「アイディア」は花だという話をしたら、
 ちょうど、翌日のミーティングで、
 さっそく「アイディア」を必要とする機会があった。
 ある計画のための企画を検討する場面だった。
 
 一枚のペーパーに、まとめられていた。
 いくつかに分類できることが、それぞれ書かれていた。
 みんなで考えましたということだった。
 ぜんぶはやれないのは、チームの人たちもわかっていた。
 
 「う〜〜〜〜ん」と、ぼくは考えた。
 一所懸命にやっているのだろうことはわかるし、
 ひとつずつの項目について、
 もっと練りあげたり磨きこんだりしていったら、
 どこかに「こたえ」が見えるのかもしれないとは思う。
 でもね、どこにも「こういうことをしよう」という
 たったひとつの「アイディア」が見えなかった。
 ひとつひとつ記されていることが、
 「こういうの、あるよね」という顔をしてるのだ。
 
 「こういうの、あるよね」は、雑談にしかすぎない。
 「こういうことをしよう」は、「アイディア」になる。
 それは、おそらく、誰にも見分けがつくと思うのだ。
 だから、いくつものことが記されていても、
 「こういうの、あるよね」しか見当たらない場合は、
 口惜しいけれど、まだ「アイディア」が出てない。
 そういうことになる。
 
 この状態が、けっこう長く続くのが普通だ。
 締切りの前夜まで出てこないことさえあるし、
 課題が見えたとたんにセットで降りてくることもある。
 なんにももったいつけることじゃない。
 「アイディア」が出たか出なかったのかは、
 じぶんで判断がつくはずなのである。
 それを、判断しないままで提出するのは仕事じゃない。
 オレが出さなきゃ誰が出す、と思いながら出すのだ。

 東京タワーだとかスカイツリーとかは、
 他のビル群とまったくちがって見えるだろう、花なんだ。
 それをつくれるおもしろさを、味わおうよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まるで、社内メールみたいな『今日のダーリン』でしたね。